東国原英夫は「徴兵制があってしかるべきだ」と言う。
「若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている。
若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」
とも言う。
東国原英夫は「規則正しいルールにのっとった生活」が必要だそうで、現在、世間
を騒がせている自衛隊を含む防衛省の不祥事を「模範にしろ」と言うことらしい。
東国原英夫の経験してきた「人の噂も七十五日」は、宮崎県以外では受け入れら
ない。
また、東国原英夫の持論による「規則正しいルールにのっとった生活」と言われ
ても、宮崎県以外では受け入れられない。
宮崎県民は、東国原英夫を県知事に選んで、そのままんま東の不祥事を帳消しに
したんだから、男女を問わず宮崎県の若者全てを乱れた自衛隊へ徴兵させることに
問題はないだろう。県条例として徴兵制度を進んで整備する県民であるべきだろう。
東国原英夫にぜひ聞いてみたい。
「訓練」とは何を指すのか。
上海のかぐや姫で歌う訓練か、
イージス艦の情報をスパイに渡す訓練か、
それとも、接待のためにゴルフをやる訓練なのか。
「時期」とは何を指すのか。
暴行罪で警察に逮捕される時期か、
離婚する時期か、
いかがわしい施設で遊興する時期か、
それとも、傷害事件を起こす時期なのか。
宮崎県知事が思う宮崎県の印象。
「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」
宮崎県民がかわいそう。
宮崎県、本当にどげんかせんといかんと思うけどね。
---「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開---
2007年11月28日20時53分
http://www.asahi.com/politics/update/1128/SEB200711280014.html
宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市の知事公舎であった若手建設業者らとの懇談会で「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」と述べた。記者団に真意を問われた知事は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」と持論を展開した。
懇談会には県建設業協会青年部の地域代表ら12人が参加。若手の育成方法などが議論になり、知事が個人的意見として語ったという。
懇談会の終了後、知事は若者について「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った。
---東国原英夫 Wikipedia---
最終更新 2007年10月26日 (金) 06:18
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E5%8E%9F%E8%8B%B1%E5%A4%AB
東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお、本名:同じ、1957年(昭和32年)9月16日 - )は、日本の政治家、知事(宮崎県知事・第17代)。学歴は専修大学経済学部卒業 早稲田大学政治経済学部中退。元お笑いタレント、 ビートたけし率いる芸人集団たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。俳優、作家。タレント時代の芸名は「そのまんま東(そのまんま ひがし)」「東英夫(ひがし ひでお)」。
略歴
* 1957年(昭和32年)
o 9月16日:鹿児島県末吉町(現曽於市)にて出生。後に都城市に移転。姉がいる。
* 1967年(昭和42年)
o 両親が離婚。母方の姓となる(その後、母が再婚し現在の「東国原英夫」となる)。
* 1976年(昭和51年)
o 3月:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校全日制課程普通科を首席卒業[1]。
* 1980年(昭和55年)
o 3月:専修大学経済学部経済学科卒業。
* 1980年(昭和55年)
o 12月:フジテレビ のお昼のバラエティ番組『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」のコーナーで漫才コンビ「オスカル・メスカル」で出場し、チャンピオンになる。
* 1982年(昭和57年)
o 3月:ビートたけし(ツービート)の最初のボーヤ(付き人)となる。
* 1983年 (昭和58年)
o 9月:『お笑いスター誕生!!』で「ツーツーレロレロ」として出場し、金賞を授賞。
* 1985年(昭和60年)
o :フリーアナウンサー片平きみよ(現・片平夏貴)と結婚。
* 1986年(昭和61年)
o 12月9日:フライデー襲撃事件。
* 1989年(平成元年)
o 片平きみよと離婚。
* 1990年(平成2年)
o 3月:女優のかとうかずこと再婚。
* 2000年(平成12年)
o 4月:早稲田大学第二文学部入学。
* 2004年(平成16年)
o 3月:早稲田大学第二文学部卒業。
o 4月:社会人AO入試で早稲田大学政治経済学部政治学科入学。
* 2006年(平成18年)
o 2月3日:かとうかずこと離婚。
o 3月:早稲田大学政治経済学部政治学科中途退学
o 12月13日:オフィス北野(所属事務所)との契約を解消(事実上の芸能界引退)。
* 2007年(平成19年)
o 1月21日:第17回宮崎県知事選挙(無所属)当選。有効票数は266,807票。
1. ^ TBSで2007年8月25日に再放送された「ドリームプレス社」の大竹まこと氏とのやりとりで述べている
俳優“そのまんま東”として
* 1993年、TBS系ドラマ『誰にも言えない』で栗林俊治・役(マンションの管理組合理事長)を演じたが、出演はこの一作品のみである。
タレント“そのまんま東”として
* 1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」というオーディションに、「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て、1982年3月に付き人となる。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。
* その直後、コンビの相棒が芸能界入りする目的であった当時の人気アイドル歌手河合奈保子を生で見たことで満足し、芸能界を辞めるということでコンビは解散、やむなく京都産業大学の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、コンビを結成。師匠たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらって「ツーツーレロレロ」と名乗った。3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、東国原は当時テレビ局でADをしていた大森うたえもん(当時の芸名は大森クンタ)とコンビを組んで「ツーツーレロレロ」を続ける。[2]人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消した。
* 「そのまんま東」の名前の由来は、たけし軍団メンバー全員の芸名を変えるという宴席で、名前を決める順番がたけし軍団の新しいほうから順番に決めていくことになっていた。そのため一番最後で、全員が泥酔してしまっていたために自分だけ新しい芸名が与えられなかった東国原が「師匠。私は名前はどうなるのでしょうか?」と聞くと、芸名を思いつかなかったビートたけしが「お前はそのまんま、“東”だよ」と言ったのを書記係だったラッシャー板前がメモしてしまい、これがそのまま芸名となったという。
* 加賀まり子の頭に自分の局部をのせて「ちょんまげ」と言い放ったことがあるエピソードが、2003年の夏に放送された壮絶バトル花の芸能界でせんだみつおに暴露される。加賀はまったく怒らずに呆れ顔で「はい、はい」といいながら頭から下ろしたらしい。
* テレビ番組で細木数子に「テレビに向いてない」と言われたことがある。
* 日本テレビのお笑いバラエティ番組『ビートたけしの全日本お笑い研究所』(1988年4月~1988年9月)で ニュースキャスター 「東国原英夫」として出演していた(出演者クレジットは「そのまんま東」)。
* 上岡龍太郎に誘われ、石田純一らとマラソンに打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。
作家活動
* 不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説『ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、翌1988年にはTBSでドラマ化され、東国原自身もたけし軍団の面々と共に出演。後に結婚することになる、かとうかずこもヒロイン役で出演した。
不祥事
* 1986年12月9日、ビートたけしに率いられ、たけし軍団と共に講談社を襲撃し、暴行罪で現行犯逮捕される。→詳細はフライデー襲撃事件を参照。
* 1998年10月13日、東京都内のイメージクラブ店が未成年の従業員を使っていたことで、児童福祉法違反並びに東京都の青少年健全育成条例 違反の容疑で経営者が逮捕された。その当時16歳であった少女が、性的なサービスをした客として東国原の名前を供述したことで、警察から任意の事情聴取を数回受けたが、「18歳未満とは知らなかった」と話した。 東国原本人と当時の妻のかとうもそれぞれマスコミを通じ、謝罪の文書を発表した。以後芸能活動を5か月間自粛した。東国原自身は法的に罪に問われることはなかったが、倫理的な性質の問題からマスコミでは「淫行事件」として大々的に報道され、社会の激しい批判を浴びることとなった。なお東は後に著書の中でタレントがいかがわしい施設で遊興をすること自体慎むべきだという意見は否定しない、としながらも自らは未成年である事は知らなかったし風俗そのものは違法ではなく謹慎する必要はなかった、仲間のタレントからももらい事故のようなものだと言われた云々記しているが実際には客の前で裸になる行為自体が風俗営業法で禁止されておりこの認識は事実誤認である[要出典]。
* 1999年11月22日、オフィス北野の忘年会で、たけし軍団の後輩タレントの側頭部を蹴り、頭部打撲等のけがを負わせたとして、傷害容疑で書類送検された。東国原は暴行の事実を認め、略式起訴で罰金を払い、そのことで一時芸能活動を再度自粛した。東国原の公式ウェブサイトでの説明によると、その後輩は普段からその言動が大変問題視されていたため、先輩として規律を正す意味で蹴ったが、暴行を加えたことを正当化するつもりはないとしている。このタレントは、現在は芸能活動をしていないと称しながらも、フライデーを刊行している講談社の雑誌である「週刊現代」の東国原知事追求キャンペーンの一環で登場、サイトでの説明に対して反論した。
政治の世界へ
かとうとの離婚後に「前々から政治家になりたいと思っていた」と言っていたことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見せるなど、タレント時代から政界への進出を考えていたという。謹慎中に入学した早稲田大学第二文学部では、卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、卒業後も同学政治経済学部に再入学して地方自治を専攻している。同学部入試において出題された小論文の「入学後に学んだことをどのように社会に還元するか?」との課題に対して、「地方自治を学び、それを実践する」という主旨の論述を明確に展開しており、この頃までに地方自治への進出志向が確固たるものとなっていた。
2006年には本人を代表とする政治研究会「そのまんま会」を設立、同12月4日には故郷宮崎県の県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行い、地元での事務所開きにおいて、支援者を前に自らの出馬にかける思いを語った際には過去の不祥事についても自ら切り出し語った。その数日後には所属していたオフィス北野を退社。官製談合事件で当時の現職知事安藤忠恕が逮捕されたことに伴う宮崎県知事選挙へ無所属で立候補。当初は過去の問題行動や言動などのイメージもあって出馬を疑問視する声も多かった。
東国原は、選挙活動において、タレント候補にありがちなタレントの選挙応援を一切受けないことで、「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。遊説や立会演説では宮崎弁を使い、早稲田大学出身をアピールし、選挙活動最終日にはマラソンをしながら活動した。宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出したそのまんまマニフェストや無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは、政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。
東国原をサポートする政務秘書には元たけし軍団のクロマニヨン吉川が就任して、多忙な東国原の生活面を助けている。
こうして、「しがらみのなさ」や「宮崎を変える」という期待感が県民に好印象を与えたことに加え、保守陣営の分裂という追い風も幸いして、県民の圧倒的な票を得て当選した。各マスコミによる出口調査では無党派層だけでなく各政党支持層からも一定の票を獲得したことが伺える。小学校の卒業文集に「夢は政治家とお笑い芸人」と書いていたが、図らずもその夢を2つとも叶えることとなった。
知事「東国原英夫」として
* 選挙活動は芸名の「そのまんま東」で行ったが、県知事に就任してからは本名の東国原英夫(ひがしこくばる ひでお)で活動している。
* 作業服で初登庁したり、「椅子をパイプ椅子に変える」「こんな立派な机もいらない」「退職金は出来高払い。議会がいらないと言えばいらない」などの言動が地元では好意的に受け止められている。知事専用の公用車について、当初は「廃止する」と述べていたが、燃費や他の手段を使った場合のコストなどの問題を考え、車種をトヨタ自動車の「トヨタ・センチュリー」から、ハイブリッドカーである「トヨタ・クラウンセダン」へ乗り換え、これにより年60万円の公費削減となった。似たような理由で知事公舎にも住んでいない(置き換えられたセンチュリーは競売に掛けられ、255万円で譲渡された)。
* 報道番組やワイドショーに連日報道されたり多くの特集が組まれるようになったとともに、積極的にマスメディアに出演して宮崎県の宣伝を行っており、自らを「宮崎県のセールスマン」と呼んでいる。バラエティー番組への出演も多いことから、「テレビに出演しすぎだ」「知事になってもタレントのつもりでいる」などの批判も挙がっているが、本人は効果的な宮崎県の全国に対するPR活動として重点を置いている。
* 2007年1月23日の知事就任直前に清武町で、そして直後には日向市、新富町で鳥インフルエンザが発生した。この状況に素早く対処すべく、1月29日には中央省庁を訪れ、国からの財政支援などを要請した。また、県内の民放局で流す、県内産の鶏肉や鶏卵の安全性を訴えるCMに自ら出演したり、宮崎県の巨人軍キャンプとソフトバンクの練習場を訪れ、宮崎県産地鶏などを贈呈するなど、風評被害対策のため、鶏肉の安全性を盛んにアピールしている。これらの努力の甲斐もあり、宮崎の地鶏の消費量は、発生前より4割も増加した(その他にも県内特産品のPRも積極的に行っている)。ソフトバンクのキャンプでは監督の王貞治と会って、「王監督の手は神のようだ」と言っていた。
* 2007年2月15日、「オール野党」とも評される県議会で所信表明演説を行った。その様子はMRT(宮崎放送)で午前9時55分から生中継(所信表明演説の中継は県議会史上初)され、普段は埋まることのない60の傍聴席を求めて93人の市民が訪れるなど、異例づくめの所信表明演説となった。その際に発した「宮崎をどげんかせんと(どうにかしないと)いかん」というフレーズは幾度となくマスコミに取り上げられ、注目を集めた。
* 2003年に4億9600万円の公費を費やして建設された知事公舎を批判し、選挙前から住んでいるマンションに知事に当選後も住んでいたが、当選後は自宅マンションや近隣住民への悪戯が多く迷惑を掛けているとの理由で勤務先の県庁に歩いて行ける近場のマンションをローンで購入し、2007年3月29日から住んでいる。
* 知事選で争った、自民党推薦の持永哲志を副知事に迎えるという人事構想を抱くが、「脱・官僚」を期待して東国原に投票した県民の反発を招き、起用を断念した。だが、2007年2月15日の、自身として初の議会において、やはり官僚の河野俊嗣(総務省から宮崎県に出向中)の起用を正式に表明した。
* 2007年4月16日の定例記者会見において、「特に発表することがない場合は(会見を)カットしてもよいのではないか」、「毎日取材に答えているので、改めて話す内容はない。それでもやる意義はあるのか」などとして、各社の記者と20分間にわたり問答を繰り返した。後に出演した『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)4月29日放送分でも「特に発表することがない場合でも、わざわざ12時まで会見時間を設けるのは効率が悪く、浮いた時間を公務に回すべき」(通常の定例記者会見が11:00~12:00の1時間で行われるため)と発言したが、かつての長野県知事である田中康夫のように記者クラブを撤廃させようというものではなく、あくまでも県政の効率化のための提案であることを述べている。その際は一部保守系メディアから非難を受けた。
* 2007年4月20日の宮崎日日新聞社の支持率調査によると、支持86.7%、不支持1.1%という高い支持率を示した。[1]



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