2008年1月9日水曜日

ラッド 「盗まれた世代」に謝罪する

「盗まれた世代」に対して謝罪するらしい。
ジョン・ハワードは「盗まれた世代」に対して謝罪しなかったが、
ケビン・ラッドはアボリジニーに対して、謝罪すると言う。
アボリジニーとその以外の人の平均寿命が17年違うと言うのは、衣食住等に
対して差別を続けた結果だろう。
隔離同化政策は70年代まで続いたと言うが、高々40年程前、行政は止めても
遂行者が残る限り慣習は残る。謝罪(賠償金)だけで済むのかと疑問に思う。
隔離同化政策を考えた人は、「豪を白人だけの国にするという願望」とのこと。
欧州白人の歴史的思想は、「奴隷(拉致)」と「単一民族主義」を切り離すこと
ができない。
マイケル・シーゲルによると
「田口吉などの思想家によって当時の西洋の人種主義は日本に導入された」と
言う。
謝罪と一緒に、「カンガルーの惨殺も止める」とは言わないのか。

新婚旅行先で一番だった頃の豪は、化けの皮をはがすと奴隷と単一民族主義で
差別を増長する国民性だった。知ってしまうとがっかり。
「老後は海外移住して豪で住もう」とかキャンペーンやっていたけど、旅行会社
も拝金主義で同罪ではないのか。
ワーキングホリディで豪に渡り帰国した人と話したが、差別を受けることが多い
と聞いた。
結局、英国人の豪移住から文化的にやっと一歩進歩したと言うこと。


---■豪州「われわれは謝罪する」---
nna 2007 11/22~11/28
http://news.nna.jp/free/mujin/051101_ase/07/1130a.html

ラッド次期首相は26日、過去の政府が先住民アボリジニの子供たちを親から強制的に引き離したことについて、新議会の招集後「早いうちに」正式な謝罪を行うと発表した。これまで「盗まれた世代」に対する陳謝を拒んできたハワード首相との明確な違いを打ち出すことになる。先住民とそうでない子供たちの平均寿命の差(17年)を縮めるための方針も再確認した。先住民の指導者らは正式な陳謝の約束を歓迎しながらも、保健衛生や生活水準の改善につながる施策の必要性を訴えている。


--- Australia's new leader says he will apologize to Aborigines---
November 26, 2007 -- Updated 0306 GMT (1106 HKT)

SYDNEY, Australia (AP) -- Newly elected Australian leader Kevin Rudd renewed a commitment Monday to apologize to indigenous Aborigines for past indignities.

Prime Minister Kevin Rudd said the apology would be framed in a consultative fashion with communities.

The issue of apologizing for policies that helped make the continent's original inhabitants its most impoverished minority is a highly divisive one in Australia.

The policies included the forcible removal of indigenous children from their families on the premise that Aborigines were a doomed race and saving the children was a humane alternative. The practice did not end until the 1970s.

The Labor Party leader said his government would offer the apology on behalf of the nation early in his first term -- suggesting a timeframe of next year.

"It will be early in the parliamentary term," Rudd told reporters in Brisbane. "We will frame it in a consultative fashion with communities, and that may take some time."

Outgoing Prime Minister John Howard angered many of Australia's 450,000 Aborigines and their supporters by steadfastly refusing to offer an apology, arguing this generation should not be made to feel guilty for mistakes of the past.

Polls show most people support an apology, and Rudd had promised to do so if he was elected.

Rudd's sweeping victory over Howard in Saturday's elections ended almost 12 years of conservative rule in Australia. He immediately put signing the Kyoto Protocol on curbing greenhouse gas emissions at the top of his international agenda.

That paves the way for Australia to play a greater role at a major international meeting on tackling climate change next week in Bali, Indonesia.

Rudd's policy on Kyoto leaves the United States isolated as the only industrialized country not to ratify the pact. His plan for the phased withdrawal of Australia's 550 combat troops from Iraq also poses challenges for Canberra's relations with Washington.

Australia has about 1,600 troops in and around Iraq, and Rudd says he wants the combat contingent to come home while leaving the rest -- mostly in supporting roles such as guarding diplomats -- to remain. Australia also has about 1,000 troops in Afghanistan, and Rudd has no plans to reduce that number.

Rudd held a second day of meetings Monday with senior bureaucrats and top advisers about taking over the levers of power. He began work on domestic priorities including his goal of providing a computer for every secondary school student and redrafting the country's labor laws.

Rudd told a news conference that implementing education and health policies were his top domestic priorities, and that he had ordered every incoming Labor legislator to visit two schools before Thursday's party meeting.

"It is important that we get to work on this straight away," Rudd said.


---[裸足の1500マイル] RABBIT PROOF FENCE---
2003年2月1日よりシネスイッチ銀座、神奈川・関内アカデミーにて公開
http://unzip.jp/review/0302/hadashino1500mile.html

監督・製作:フィリップ・ノイス/原作:ドリス・ピルギングトン(メディアファクトリー)/撮影:クリストファー・ドイル/音楽:ピーター・ガブリエル/出演:エヴァーリン・サンピ、ローラ・モナガン、ティアナ・サンズベリー、ケネス・ブラナー、デビッド・ガルビリルほか
(2001年/オーストラリア/1時間34分/配給:ギャガ・コミュニケーションズGシネマグループ)

∵公式サイト

【STORY】
1931年、西オーストラリア。アボリジニ保護局の局長ネビル(ケネス・ブラナー)は、混血アボリジニの子供を家族から引き離し、白人に同化させる政策を押し進めていた。もともとオーストラリア西部を南北に2本になって横切る5000マイルもの長大な“ウサギよけフェンス”を作りに来た白人男性が、現地のアボリジニ女性に生ませた混血児が大量に存在したことから、この計画は始まっていた。当時「野蛮」とされていたアボリジニの中に、白人の血をひく幼い娘達がいる。彼女達をもとの野蛮な生活から隔離し、「教化」して、さらに白人男性の子を生ませることで、二代後には外見も白人と変わらない子供が誕生する―― というのが「アボリジニ保護」の名目で行われていたのだ。ネビルは混血を重ねたアボリジニのスライド映像の前で、こう主張する。「混血児を文明化する、これがその答えです。人種交配も三代で肌の黒さは消滅します。白人文化のあらゆる知識を授けてやるのです。野蛮で無知な原住民を救うのです」云々…‥。

本来アボリジニは狩りをしながら大陸を放浪する民だ。ギブソン砂漠の端、ジガロングに白人が配給所を作って以来、砂糖や食料を配給してもらう配給日が近づくと、付近のアボリジニは野宿して待つ。14蔵の少女モリー(エヴァーリン・サンピ)が空をいく鳥を見ていた。「“精霊の鳥”だよ。どこにいてもお前を見守ってくれる」と母が教える。モリーは狩り上手だった。と、彼女とその妹で8蔵のデイジー(ティアナ・サンズベリー)、従妹の10蔵のグレイシー(ローラ・モナガン)という三人の混血少女を確認する白人達の姿が…‥。早速、ネビルから「隔離」命令が出て、彼女達は連れ去られてしまう。「逃げたら母親を逮捕する」とモリー達を脅し、泣いてすがる母を後にして、ジープは南へ。檻に入れられての汽車の旅、自然には無い人工ノイズの氾濫が強調され、さらに乗り換えてトラックの荷台での長旅の果てに辿り着いたのは、西オーストラリア最大の都市パースの北にあるムーアリバー収容所だった。大部屋にベットが並べられ、用を足すのは隅のバケツ、英語以外は禁止で、食事の前はお祈りを強要される寄宿舎生活。絶えず監視される監獄のような生活から逃れ、親に会いたくて脱走する者もいたが、収容所には凄腕の追跡人、アボリジニのムードゥ(デビッド・ガルピリル)がいて、脱走は不可能。すぐ捕まって見せしめの厳罰が処されるのだった。こっそり「デビル」とアダ名されるネビル局長お気に入りの「スワニー川」を合唱させられ、皆の前に呼ばれて肌の白さで選別される屈辱に耐えかねたモリーは、逃げ出して母の元へ帰る決意をする。「どうやって?」と尋ねる幼いデイジーに、モリーは「歩くの」と答える。「遠すぎる」というグレイシーも加わり、足跡や匂いが消える雨の日についに決行。ムードゥをいったんは捲くことに成功する。だが過酷な家路は始まったばかりだった。

2日後、ネビルは三人の脱走を知るが、すぐムードゥが捕まえると甘く見ていた。だが巧みにムードゥの追跡を逃れ、時にはアボリジニ男性や親切な白人女性にも助けられて逃げ続ける彼女達に、費用面で渋る警察隊と難儀な追跡交渉を続ける羽目になる。マスコミも嗅ぎ付け、保護局の面目も丸潰れだ。1ヶ月が過ぎた頃、ネビルは彼女達の目撃証言を地図と照らし合わせ、あることに気付く。「フェンスだ、ラビット・フェンスに沿っている…‥石器時代の生活をしていても、かなり頭がいい」と。そう、助力者のヒントでモリー達はウサギよけフェンスを見つけたのだ。それは遥か遠くのジガロングまで繋がり、そこでは母がフェンスを通して不思議なコミュニケーションをはかっていた。そしてネビルが気づいて挟み撃ちを命令した頃、ある旅人に近道を教えられ、またも裏をかくことに成功する。途中の農家でメイド兼性奴隷とされたアボリジニ少女に出会ったり、空腹と疲労から仲違いしたり、グレイシーの母の居留地を教えられて動揺したり…‥ 彼女達の苦難は続く。逃亡2ヶ月が過ぎた頃、モリー達は追っ手も引き返すような危険な砂漠地帯に差し掛かる。フェンスも壊れ、砂に消えてしまっていた。それでもモリーは最後の気力を奮い起こし、疲れきったデイジーを背負いながら、荒涼とした道なき道に踏み込んでゆく。果たして彼女達の運命は…‥?

【REVIEW】
「この映画は、アボリジニとか白豪主義とかを知らなくても感情移入できる映画だ。アボリジニであることの映画ではなく、人間でいることについての映画だ… (後略)」とロバート・ハリス(『ファーザーランド』『ワイルドサイドを歩け』『エグザイルス/放浪者たち』『エグザイルス・ギャング』などの小説家)が評している。そう、ある意味でこの映画は、母親から遠く引き離された14歳の少女モリーが、母に会うために1500マイル(約2400km)を徒歩で、サバイバルしながら帰郷する――というシンプルな、しかし力強い“実録”ロードムービーなのだ。6つ下の妹と4つ下の従妹を連れて、白人文化とアボリジニ文化がアマルガムとなった知恵を駆使して、混血児モリーは白人優位社会という「システム」に無意識に反逆する。「システム」に忠実な官僚ネビルは、それが互いにとって良いことと信じて、「システム」を円滑に動かすことだけに腐心する。「システム」の奴隷となったアボリジニ追跡人ムードゥは、アボリジニならではの「狩りの才能」を、自らの出自であるアボリジニを獲物として発揮することに生き甲斐を得る。そして「システム」下のさまざまな庶民達は、こっそりそれに反抗して少女達を助けたり、あるいは市民の義務として通報したり、疑義を抱いたり…‥とまとめてみると、実話なのに神話か伝説のようなキャラ配置だ。導く者となる“精霊の鳥”やフェンスを通してのテレパシー的交流、捕縛者を妨害する祈りなど、マジック・リアリズム文学の味もしっかりあって、「でも実話なのよ」と言われると、もはや「参った」としか言えないのだ。ま、とにかく主人公のひたむきさに打たれ、この神話にも似たエグザイル譚に、激しく感動した僕であった。迷わず「必見」といえる映画である。ただし考え込むことも若干あるんだけど…‥。

原作は、本作のヒロインの実の娘にして、母同様に「保護」されてしまい(4歳で!)、そのまま白人に同化させられて育ったドリス・ピルキングストンによるノンフィクション。製作・監督は『パトリオット・ゲーム』『今そこにある危機』『ボーンコレクター』などのフィリップ・ノイス。撮影監督にウォン・カーウァイ監督作品でおなじみ、自身でも『KUJAKU 孔雀』を脚本監督したクリストファー・ドイル。この二人もオーストラリア出身である。そしてピタガブことビーター・ガブリエルが久々に手掛けた映画音楽は、アボリジニ音楽も取り入れたスピリチュアルなものとなった。主演の三人、エヴァーリン・サンピ、ローラ・モナガン、ディアナ・サンズベリーはオーストラリア全土から1200人以上のオーディションを経て選ばれた、アボリジニの血を引く小さな女優達。個人的には妹役のティアナ・サンズベリーが可愛くってドキドキしたが、やはりエヴァーリン・サンピの逞しいひたむきさが感動を呼ぶ。アボリジニ保護局の局長ネピル役は、名シェイクスピア俳優にして監督もこなすケネス・ブラナー。無自覚な悪役として映画を引き締める。『ライト・スタッフ』『夢の涯てまでも』『クロコダイル・ダンディー』などに出演していたデビッド・ガルビリルも、プロの追跡人ムードゥをリアルに演じていた。

さて。背景にはオーストラリア政府官僚によるアボリジニ「保護」政策の独善(白豪主義)がある。定住せず国家的管理ができないオーストラリア先住民アボリジニは、その初期には虐殺され奴隷化され、または「荒野に追い払われ」(村上春樹『海辺のカフカ』下巻P153参照)、あるいは同化教育を施された。白豪主義とは雑にいえばそういう考え方だ。厄介なのは西欧文明化=同化させることは善意である、と、たった数十年前まで思い込まれていて、実は今も一部(?) で信じられていることだろう。1970年代以降、非ヨーロッパ系の移民も広く受け入れるようになり、文化的多元主義へと方針転換したオーストラリアだが、最近は反動勢力も出てきて微かに険悪な徴候もある。「盗まれた世代」アボリジニの文化的台頭がオーストラリアの精神文化に活力を与える一方、同じ大英帝国の息子にして「長男」であるアメリカにおけるネイティヴ(インディアン)文化(ドン・ファンの教え!)に対する「次男」オーストラリアなりの再演ないしヴァリアント(別Ver.?)とも冷やかされそうな感じもあって、深く考え出すと難しい。本作も、原作は白人化させられたアボリジニ混血女性によって「英語」で発表され、主にオーストラリア「白人」スタッフによって雄大なスケールで映画化され、そのことでやっと日本の観客にも届いたのだ――という事態の肯定的評価はなされるべきなんだけど、結局これは日本も含む「非アボリジニ側」による再搾取(サヨク用語だ)、つまり再び「盗む」ことなのかもしれない。あるいは僕らの「内なるアボリジニ性」(反国家主義とかノマディズムとか)を誘発させる犠牲的なヒントなのか? いや、本作の新聞広告チラシに引用されていた『海辺のカフカ』でいっちゃうと、「人々はじっさいには不自由が好きなんだ」と大島さんが言った後にくる「自由な」アボリジニ話(下巻P153参照←しつこいって)の結論部が問題なのだ。「結局のところこの世界では、高くて丈夫な柵をつくる人間が有効に生き残るんだ。それを否定すれば君は荒野に追われることになる」という、『裸足の1500マイル』のテーマからは真逆なようにみえるアドバイスに、どれくらいのバランスで「荒野に追われる」正しさもあると疑義を唱えるか?なのかもしれない。うーん、やっぱり難しい。そういう深みにハマることはやめて、雄大なオーストラリアの自然の中で繰り広げられる「普遍的な神話的冒険譚」として、ただ凄いと感動するだけでもOKとしたいんだけどね、ロバート・ハリスも保証していることだし。

あ、でもアボリジニの男の子を同じように隔離教化して、白人女性とくっつけるって選択肢は無いのか。ん? 白豪主義以前に白人男性の都合(避妊もせずに性的慰みものにして大量に生まれた子の認知問題にあたふたって感じ)じゃないのか。そこにこそフェミっぽく怒るべきなのかもなぁ。というかこの時代、追跡人以外のアボリジニ男は何をやってたのかが気になる。確か男は男で集団になって放浪していたはずだと思うんだけど、映画にはポツンポツンと一人旅してるのしか出てこないって存在感の無さにちょっと驚いた。ま、その分、追跡人ムードゥひとりキャラが立ってるんだけど。はてさて。余談であった。

Text:梶浦秀麿


---裸足の1500マイル---
http://www.gaga.ne.jp/hadashi/story.html

母の待つ故郷まで2400キロ、アボリジニの幼い少女3人は、 オーストラリアを縦断するフェンスをたよりに歩きだす…。
舞台は1931年のオーストラリア。当時、オーストラリアでは先 住民アボリジニの混血児たちを家族から隔離し、 白人社会に適応させようとする"隔離同化政策”がとられていた。 その政策の対象となり、強制的に収容所に連れ去られた少女3人 は、母の待つ故郷へ帰るため、2400キロに及ぶ行路を歩き始めた。 執拗な追跡者と大自然の驚異にさらされながら、ありったけの気力 と知恵を振り絞る少女たち。頼りは大陸を縦断する1本のフェンスだけ―。 少女たちの一人であったモリーの娘、ドリス・ピルキングトンが 綴った真実の物語。


---論説 人種主義と二十世紀の世界---
社会倫理研究所・第一種研究所員
南山大学総合政策学部・総合政策学科・准教授
マイケル・シーゲル
http://www.nanzan-u.ac.jp/ISE/japanese/publications/se21/21seigel.pdf

「裸足の一五〇〇マイル」
 「盗まれた世代」を取り上げる映画は二〇〇二年に封切りになった。日本でも放映され、日本語では「裸足の一五〇〇マイル」というタイトルで知られていて、元の題名は「The Rabbit-proof Fence(兎よけフェンス)」である(13)。その映画は実話で、一九三一年に起きた事件を取り上げるものである。三人の「混血」の子供が親許から引き離され、施設に連れて行かれたが、逃げて、一五〇〇マイル(二五〇〇キロ)を歩いて、砂漠をも含む過酷な地形を渡って親許に帰る話である。
 この子供たちの父親らはオーストラリアの南海岸から北海岸まで作られたウサギよけフェンスの設置に働くためにアボリジニの住んでいる地方に行った人たちであり、映画の物語が始まる時点ではもはやそこにいない。その意味では三人の子供の生まれは典型的である。やや珍しいのは連れ去られたときの年齢である。映画の主人公である一番上の子供は十四歳で、あとの二人(妹といとこ、三人と社会と倫理も女の子)はそれより何年か年下だった。「盗まれた世代」で連れ去られた多くの子供は一歳未満だった。しかし十代の子供が連れ去られるのは比較的に少なかったとは言え、決してまれだったというわけではない。どの「混血児」も、「混血児」である以上、政策の対象となっていた。「裸足の一五〇〇マイル」はかなり正確にその政策とその時期に政策の背景にあった理念を描いている(14)。
 三人の子供の一番上はモリー・クレーグという子だったが、実際の歴史においては、映画で取り上げられた事件の数年後、もう一回連れ去られ、もう一回逃げて、生まれ故郷のジガロンまでのたびを二回もすることになったのである。悲しいことに、一九四三年にモリー自身の子供が連れ去られてしまい、その子供との再会の待望が叶わずにモリーは二〇〇四年になくなったのである(15)。

「盗まれた世代」の経過
 「盗まれた世代」の政策が明るみに出たのは、一九七〇年代にピーター・リードという若い歴史家がニュー・サウス・ウェールズ州のアボリジニ保護局(Aboriginal Protection Board)の資料を研究しているときに、政策に関連する資料を大量に見つけたのがきっかけだった。リードは引き離された家族を再びつなげる活動を開始し、一九八一年に研究結果を出版した(16)。「盗まれた世代」とはリードが使った名称である。そこから、その政策の内容が少しずつ知られるようになり、八〇年代の終わりまでに広く意識されるようになっていた。一九九二年に当時のキーティング首相が政策の事実を認め、一九九五年に連邦政府は『盗まれた世代』の実態に関する調査をオーストラリア人権・機会均等委員会(Australian HumanRights and Equal Opportunity Commission)に依頼し、一九九七年五月にこの委員会がBringing Them Home『自宅へ連れ戻す』という題名で報告書を発行した。その後は謝罪や和解のための活動が多く行われている。
 政策がいつから始まったかは定かではない。人権・機会均等委員会の報告書によると、「ヨーロッパ系の人たちによるオーストラリアの占領の初頭から、先住民族の子供たちはその親および社会から強制的に引き離されていた(17)」のである。それは労働として連れ去られたりすることもあり、また、宣教師や行政関係者は「西洋的な価値観」を植えつけるために連れ去ることもあった。ただし、植えつけようとした「西洋的な価値観」は「勤勉さ」を含むものであって、仕事をすることに直結するものであって、こうしてアボリジニの子供たちはヨーロッパ系の入植者に役立つものとなると理解されていた。したがって、「労働力として連れ去られる」場合と「西洋的な価値観を植えつけるために連れ去られる」場合には大差がなかったかもしれない。
 最初のうちは公式の政策ではなくて、それぞれの個人が自分の判断で、そして自分なりの理由で、実施していたのである。行政(18)はむしろ、その慣わしに対して問題意識を持ち、アボリジニを守るためにアボリジニ保護者を設置するようになった。
 しかし、十九世紀末が近づくと、純粋なアボリジニの人口が減っ人種主義と二十世紀の世界ていたのに対して、「混血児」が増えていたために、「盗まれた世代」と現在言われている政策が対策として採られた。法的に設定されたのは二十世紀に入ってからであるが、実質的にそれより先に始まっていた。そして一九六〇年代の終わりまで続いたのである。
 その政策があること自体を多くの西洋系オーストラリア人は知らなかったが、ほとんどのアボリジニは知っていた。私が育った農村にもアボリジニが住んでいた。彼らは子供たちが連れ去られることを非常に恐れていたことを私たちは知っていた。しかし、どうしてそんなことを心配しているか理解することができなかった。彼ら自身の勘違いだと私たちは思っていた。

政策の規模
 人権・機会均等委員会の報告書によると、一九一〇~一九七〇年までの間に強制的、あるいは半強制的に親許から引き裂かれた子供たちの数は少なく計算しても一〇万人を超え、その期間に生まれたアボリジニの子供の一〇~三〇%に相当する割合だった。被害を受けていないアボリジニの家族は一つもないと報告書が指摘している(19)。

政策の理念
 母親と子供を引き裂くほど人道にもとることはないだろうが、この政策の怖いところはそれを構想した人たちや実施した人たちの多く(全員ではない)は自分のやっていることの正当性に関する完全な自負心を持っていたということである。実際、政策の実施には宗教家もかなり関係していたのである。つまりキリストの愛や隣人愛の重要性を説くキリスト教の宗教家である。
 先に一般のオーストラリア人に知られない政策だったと述べたが、明らかに秘密裏で行われた政策であったというわけではない。直接に関わった人々の数は少なくないので秘密にすることができるものではない。ただ、報道されなかっただけのことである。それに、おそらく一九五〇年代まではその政策の背景にあった考え方は一般のオーストラリア人の考え方とあまり変わらなかっただろう。一九六〇年代に入るまでは多くのオーストラリア人が知っても、違和感はなかったかもしれない。

政策の背後にあった理念
 七〇年にわたる政策だっただけに、その裏づけとなっていた思想の変化がどうしてもある。したがって、その政策がどのように考えられていたか、時代によって変化が多少はある。しかし少なくとも第二次世界大戦まではその政策を貫く理念もあったことは間違いない。それはオーストラリアを白人だけの国にするという願望だったのである。思想として政策の背景にあったのは社会進化論だった。そして特に戦間期(第一次世界大戦と第二次世界大戦の間)では社会進化論に優生思想が加わったのである。

社会と倫理
社会進化論に関する一般の理解
 社会進化論はダーウィンの『種の起源』より先にスペンサーが首唱したものであり、ダーウィン自身の思想ではなかった。スペンサーは人類の進化は多様性への発展であり、それが多数の人種の成立にも反映されていて、人種の中でより「低い」人種は動物により近いと論じ、特にオーストラリアの先住民族を「チンパンジーを思い起こさせる(20)」ものとして動物にとても近いものだと指摘する。
 しかし、一般の人々が理解していた社会進化論はむしろ人種へのダーウィンの思想の適用だった。そしてダーウィンの思想との関連性が社会進化論に一段と「科学的」なイメージを与え、科学が大変信頼されている時代において、そのイメージが相当な説得力を与えるものとなった。つまり「人種」の間に進化による差があり、進化がより進んでいる「人種」と進化がより遅れている「人種」があり、「適者生存」(これはもともとスペンサーの造語である)の理論では進化のより進んでいる「人種」は生き残り、遅れている「人種」は絶滅すると考えられていた。ヨーロッパで考え出されたこの思想は当然にヨーロッパ人をもっとも進化が進んだ人種とし、オーストラリアのアボリジニをそれが最も遅れている人種とした(21)。ラトローブ大学のロバート・マンは次のように述べている。
 当時のオーストラリア人は、他の多くの人たちと同様に、人類の諸人種を文明という基準でのランク付けができるものだと考え、そのランクは道徳上の品格と生存への適正に関連するのだと考えていた。この文明のはしごの最上段には北ヨーロッパ人[アルプス山脈以北のヨーロッパ人]がいて、最低段はアボリジニがいると理解していた。なお、ヨーロッパ人とアボリジニの生殖行為によって生まれる混血児を露骨な嫌悪感と不安を持って見ていた(22)。
マンは当時の人類学者ハービ・バセダウを引用している。「オーストラリアのアボリジニは我々がのぼって来た偉大な進化のはしごの最低段の周辺に立っているのである。アボリジニは人間の文化のつぼみであり、我々はその光り輝く花である(23)」。
 先のマンからの引用は「混血児」に対する不安に触れているが、この不安はマンが引用する一九二七年の西オーストラリア州の新聞の記事が明確に示している。「中央オーストラリアの混血児問題に関して早急で大胆な対応が必要である。専門家が一致して認めているもっとも重要な危険性はオーストラリアで三つの人種―白人、黒人[アボリジニのこと]、そしてそのどちらでもない哀れな腹黒い人種―が発生することである(24)」。
 社会進化論は広く世界に受容され、先ほど述べたように、ダーウィンの進化論によって科学的に裏づけられたと考えられていた。「適者生存」の考えで、進化が遅れているアボリジニはいずれ絶滅すると考えられていた。チャールズ・ドゥグイドが指摘するように、「十九世紀の終わりから二十世紀にかけての普通の考え方は[アボリジニ]人種が、一応人間のうちではあるとは認められても、進歩の能力のないものだと考えられ、急速に絶滅しつつあると理解されていた(25)」。その考え方を受容した白人は必ずしもそれを喜んでいた人種主義と二十世紀の世界わけではない。アボリジニの将来の絶滅を悲しい科学的事実として受け止める人は少なくなかったのである(26)。

優生思想
 優生思想も特に戦間期において広く受容されていた。つまり、生殖(誰が誰と一緒に子供をもうけるか)を管理することによってより優秀な民族を作るという考え方だった。進化のプロセスを管理しようとする思想であり、社会進化論との関連が明白である。近代の優生思想の創始者はダーウィンのいとこフランシス・ガルトンであって、ダーウィンの進化論を参考にしながらその概念を構想したのである。優生思想の英語名称のeugenics はガルトンの造語である。少し長い引用になるが、優生思想に関するロバート・マンの解説を紹介する。
 一九二〇年代および三〇年代においては、優生科学、つまり生殖を管理することで国民の人種的改善を図ることが現代の国家の責任の一つであると推奨する科学は、西洋世界のすべてにおいて巨大な影響力を持っていた。優生科学には消極的側面と積極的側面があった。消極的側面は精神病患者、遺伝的疾病の患者、あるいは知性の低い人への避妊手術を施すことを勧めるものだった。そのような対策がもっとも極端に実施されたのはもちろんナチスドイツだったのだが、スカンディナビア諸国や米国における三〇の州などで、広く実施されたのである。優生科学のプログラムの積極的な面は生殖の管理プログラムによって国民の人種的・生物的族種を精製することに焦点を合わせていた(27)。
 オーストラリアでは純粋なアボリジニの人口が減少しているか、もしくはかろうじて横ばいしているかと見られていたが、アボリジニと白人の混血が増える一方だった。上記のように、白人とアボリジニの間の第三の「人種」も育ってしまうことが懸念され、米国が抱えている黒人問題がよく引き合いに出され、そのような状況をオーストラリアが避けるべきだという理論になっていた。「盗まれた世代」はそのための対策と見られるようになったのである。
 一九二〇年代の終わりから一九三〇年代の初めにかけて、人類学者、医学者、およびメディア関係者から成り立つ少人数のいくつかのグループが混血児の問題の解決として、当時「生殖の管理による有色性の排除」、後で「生物学的同化、もしくは吸収の政策」と呼ばれるようになった方策を推奨し始めた(28)。
 つまり白人の血が入っている「混血児」をアボリジニから引き離して、生殖年齢に至ったときに白人や、あるいは少なくとも自分より白人の血が多く入っている「混血児」と組ませることによって、アボリジニの血を次第に排除していくという政策だった。「混血児」と純粋なアボリジニや同じ度合いにアボリジニと白人の血を引いている「混血児」の間の結婚、もしくは生殖行為が望まれず、必ずアボリジニの血を薄めるように「混血児」と白人の結婚、もしくは白人とアボリジニの血を違う度合いに引いている人の間の結婚が求められた。換言すれば「盗まれた世代」という名称で知られるようになった政策の目的は優生思想に基づいて生殖を管理することによっ社会と倫理て人種の浄化を図ることであって、ジェノサイドとも関連性が指摘されている(29)。
 たとえば、人権・機会均等委員会の報告書は西オーストラリア州のアボリジニ保護者ネビル氏(ネビル氏は「裸足の一五〇〇マイル」の映画に出るアボリジニの保護者であり、その映画ではアボリジニたちが「ネビル」という名前にちなんで「デビル」、つまり『悪魔』というあだ名をつけていた)の見解を次のように紹介している。
 ネビル氏は一〇〇年以内に純粋なアボリジニが絶滅するという見解を持っている。しかし混血児の場合は問題が年毎にエスカレートしているとみている。したがって、解決案は純粋なアボリジニを隔離させ、混血児を白人の社会に吸収していくということである。ネビル氏によると、六〇年前に西オーストラリア州のアボリジニ人口は六万を超えていた。現在では、その人口は二万となっている。次第にゼロになっていく。一〇〇年間かかるかもしれないし、もっと長くかかるかもしれないが、死んでいく人種である。純粋なアボリジニは繁殖力がそれほどない。一方、混血児は繁殖力がある。西オーストラリア州に二〇人を超える人数から構成される家族もある。それは問題の大きさを示している(30)。
また、西オーストラリア州の新聞であるザ・ウェスト・オーストラリアンの一九三三年七月二十五日号には、「メンデルの遺伝法則の適用は唯一の方法である。それは混血児が四分の一混血児や八分の一混血児と組んで生殖するようにさせることを意味する。そうして、白人の血の確実な挿入によってその黒い色は最終的に打ち消される」。そしてそこに新聞の記事が奇妙に非科学的な、しかしたぶん政策の背景の感情をかなりばらしてしまう言葉を述べ、「最終的に私たちがいやがっているのはその黒い色である」というのである(31)。

文化的優越感の側面
 「盗まれた世代」の政策の背景にあった理念は時々誤解される。
「盗まれた世代」の政策は一種の文化的うぬぼれに由来すると解釈されることがある。つまり、西洋の文明をアボリジニの文化と比較してきわめて優れたものだと考えた白人が、一種の福祉活動のようなものとして「混血児」や純粋なアボリジニをその原始的な文明から救出するための対策だったと勘違いされることがある。
 勘違いだと言っても、その解釈が正しいという時期もある。以前述べたように、宣教師が西洋の価値観を植えつけようとしたのはまさにそうである。それに、政策が実施されていた時代の白人は西洋文明の方が優れていると確かに思っていた。この政策によって「混血児」(そして場合によって純粋なアボリジニ)は原始的な文明から救出されると思っていたに違いない。この政策に携わった人たちは「子供たちをその文化および家族から引き離すことで、短期間のどれほどの悲しみや苦しみの原因になったとしても、長期的には、自分たちのやっていることが子供たちのための最善のことだと誠実に信じていた」とマンも述べているのである(32)。

人種主義と二十世紀の世界
 特に戦後において、政策の人種主義的側面は次第に薄らいでその福祉的側面が重要視されるようになった。私の記憶にかすかに残っていることで、私が育った農村に住んでいたアボリジニ家族の子供は、一九六〇年代に入ってからではあるが、実際に連れて行かれたのである。しかし、栄養失調で病気になりやすかったその子供は数ヵ月後に元気になって返された。母親はその後ほかの子供たちも連れて行ってほしいと言っているのだという話を農村で聞いた。私が高校にいくためにその農村を出てからのことであって、直接にアボリジニ自身から聞いていないので確実な話ではないが、終わりかけの段階で政策の性質がそのような方向に転換していたことは確かである。
 しかし、それは政策の一つの側面であっても、政策を導いた根本理念ではない。「盗まれた世代」の政策は社会進化論と優生思想に導かれ、白豪主義とともにオーストラリアを白人だけの国にするための政策だった。白豪主義の国内的側面だったと言える。つまり、純粋なアボリジニが適者生存の理論で絶滅し、生殖の優生思想的管理によって「混血児」からアボリジニの血が次第に排除されていき、移民政策によって白人以外の「人種」が入国できず、それによってオーストラリアは白人だけの国になっていくという考えだった。
 確かに、二十世紀の初頭に、「混血児」が増えているという状況を受けて、政府に依存することなく自立できる政策として考えられていたことも確かだし、一九四〇年以降は政策の実施はアボリジニ保護法ではなく福祉法によって親許から引き離されるようになった。しかしこの時期でも、そして私の農村で起きたこともあったとしても、歴史家ロバート・マンは「親許から子供を引き離す慣わしは以前とほぼ同じように継続するという形で、福祉法が適用されていた」ことを指摘している(33)。要するに、社会進化論的思想および優生思想はその政策を貫いていたという側面がある。そういう思想は戦間期において特に強かった。オーストラリアの歴史家、スチュアート・マッキンタイアはこの時期を政策の「もっとも腹黒い段階」と名づけた(34)。
 今からみると、無知、うぬぼれ、そして残酷さに満ちた政策だった。その背景にあった考え方も同様に無知、うぬぼれ、残酷さに満ちていた。善意のある人たちがすることでも考えることでもないはずである。しかし、善意のある人たちがそう考えていたし、その政策を実施していたのである。

世界における社会進化論・優生思想
 当時はそのような考え方が世界に普及していて、「科学的」という裏づけも持っていた。最終的にそのような思想がナチスドイツにおいてのユダヤ人に対する虐殺につながってしまい、そのひどさが報道されたことでその考え方のひどさが明確になり、それで通用しない考え方になったと言えるかもしれない。しかしヒトラーの思想も、すでに普及している考え方の延長に過ぎないものであって、決してドイツの独特なものではなかった。
 日本への影響もあった。日本は明治時代から、大正を通じて、そして昭和にかけて西洋文明を急速に取り入れていたが、この時期はまさに社会進化論や優生思想が西洋で普及している時期だった。日本でそれがどのように受容されたかを研究することは大変重要である。脱亜入欧などのような思想がそれに関係しているだろうし、今も日本が欧米との関係を重視し、他の地域を二次的にしか考えていないという現実をみると、今でも尾を引いているものではないかと思える。橋川文三によると、田口吉などの思想家によって当時の西洋の人種主義は日本に導入された(35)。戦前の軍事政権への影響が特に強かった徳富蘇峰は特に社会進化論を取り入れていた(36)。慰安婦問題に関しては、田中由紀が人種主義と優生思想が関連していたことを示している(37)。また、ハンセン病に対する日本の政策と優生思想の関連は広く指摘されている。患者をどうして隠さなければならなかったのか、どうして生殖をできるだけ阻止したかは、やはりその思想によるものである。これらの歴史を理解するために、また、現代世界の生い立ちを理解するために、そして現在も残っている後遺症の確認のために、これらの思想に関する究明が重要だということは明らかであるように思う。

最後に
 「盗まれた世代」の政策が善意を持って実施されたことはすでに述べた。しかし、政策のひどさを意識する人はその時もいたのである。西オーストラリア州で一九三〇年代を通じて、メーリー・ベネットという人が政策に反対する活発な活動を起こしていたことは著名な例である。それに実際に政策に携わった人たちは必ずしも西オーストラリア州のアボリジニ保護者ネビル氏のような冷淡さを持っていたとは限らない。マンは当時、警官として勤めていた人の息子の話を述べている。息子は父親が仕事から帰ってくるときに泣き崩れるのを何度も見て、その理由を尋ねたのである。「混血児の家に入って、九、十、十一、十二歳の子供たちを愛するお父さんとお母さんから引き離す福祉担当者の手伝い」をしなければならないつらさだとお父さんが説明したそうである。
 つらいのにどうしてするのか。結局、体制や専門家に迎合してしまうということは一つの原因だろう。それに、オーストラリアの思想家レイモンド・ゲイタは差別に関して重要なことを指摘している。ゲイタによると、人種差別の根底にあるのは「より単純、より原始的と見られている他者にも、我々と同様の強さと深さをもって、愛と親しみ、別離と悲しみを経験するのだということへの認識の欠如だ」ということである(38)。
 「盗まれた世代」の背景にある思想を知るのが大切なのは、現在の世界が抱えている差別の問題を理解するためであり、また、現代世界におけるその思想の後遺症に気づくためである。排除されなければならないのは特定の人種や特殊なグルーブや文化ではなく、「人種」という概念、「混血」という概念、また人間にランクをつけるあらゆる思考、あらゆる差別である。


---ロンリープラネット コラム集---
盗まれた世代の物語
オーストラリアについて
http://special.msn.co.jp/travel/overseas/australia/column/about/03.htm

1918年~70年に、オーストラリア政府はアボリジニの子供(そのほとんどが5歳未満だった)約10万人を強制的に両親から引き離し、数10km 離れた場所の施設か、白人の里親のもとに送った。元の家族との接触は意図的に困難な状況に置かれた。連れて行かれたのは、逃げ出そうとしても家にはとうてい帰れないほど遠い場所で、別の州であることも多かった。子供の多くは両親が死亡したと言われ、両親には子供がどこへ連れて行かれたかを教えられる事はまれだった。

施設では、子供は最低限の教育しか受けられなかった。生活環境は劣悪で、食事もまともに与えられなかった。多くの子供が性的虐待やそのたの虐待を経験している。このように親から引き離され、現在生き残っている人たちは「盗まれた世代」と呼ばれて、オーストラリアでは政治的な大問題となっている。その一人、ロレイン・マフィ-ウィリアムズ女史が、ロンリープラネットに次のような手記を寄せた。

私たちが両親から引き離されたのは、私が12歳の時でした。兄のジョンは14歳、ベルは16歳、ルーシーは9歳、イレインは7歳、赤ん坊同然だったシッドは3歳でした。何の前触れもありませんでした。白人の福祉担当官が2人の白人警官を連れてトラックでやってきました。父は仕事に出ていてそこにいませんでした…。私が最後に母を見たとき、母は泣いていました。母がこれほど激しく泣いているのを、葬式以外で見たのは初めてでした。母は泣きじゃくり、体を震わせていました。私は、こう言ったことを覚えています。「大丈夫よ、お母さん。ちょっと町まで行ってくるだけよ。」すぐに帰ってこられる、そう思っていたのですが、違っていました。

私は兄弟姉妹とともに、屋根のないトラックの荷台に乗せられました。ニュー・サウス・ウェールズ州のアーミデールに到着するまでに、道から舞い上がる赤い埃にまみれ、ほんとうに惨めな姿になっていました。トラックから降ろされたときにはなにがなにやら、すっかり混乱していました。シッドとジョンはキンチェラ男子施設へすぐに送られました。ベルは100km離れた家畜牧場へ労働者として連れて行かれました。イレインとルーシーと私は、アーミデールの孤児院へ送られました。私はそこで1年間過ごしましたが、非常に反抗的な子供でした。まだ幼かった私には、施設に閉じ込められ、両親から引き離されるという事に納得できなかったのです。なぜこんなことになったのでしょう。私がアボリジニの子供だったからなのです…。この人たちはなぜこんなことをしたのでしょう。私は途方に暮れ、孤独で、逃げ出すために何でもやってみました。自殺しようとしたこともあります。しかし、それは後の話です。

妹のルーシーは病弱で、毎晩のようにおねしょをしました。孤児院の保母はそれを見とがめ、毎朝、革紐でルーシーを叩くようになりました。私はルーシーに、私の乾いたシーツと彼女のシーツを交換し、私の乾いた寝巻きを彼女に着せるから夜起こしてくれるよう言いました。朝になって保母がベッドを調べると、濡れているのは私のベッドです。私はルーシーの代わりに叩かれました。

数カ月後、私は家政婦としての訓練を受けるためにクータマンドラ女子ホームへ送られました。私はひどく汚れた衣服を洗い、汚い床をこすり、赤ん坊の尻を拭くいやな仕事をしました。ベッドと1日3回の食事と引き換えに、夜明けから日暮れまで働きました。私は13歳でした。

18歳の時、ついに自由の身となりました。私はクータマンドラ女子ホームから解放され、シドニーで仕事を見つけました。ほかのアボリジニに私の両親を知っているかどうか聞いて回りました。ある日、背の高い、がっしりとしたハンサムな肌の黒い男の人が私に近づいてきてこう言いました。「君はロレイン・ターンボールか。僕は君のいとこのダーシーだよ。」彼は私の両親の居場所を教えてくれました。

私はすぐに荷造りをしてターリー行きの列車に乗りました。パーフリート・ミッションに両親が住んでいたのです。私の生まれた土地です。列車を降りた時、両親は駅で待っていました。私は両親が知っていた子供ではなく、大人の女性になっていました。私たち3人は抱き合い、泣きました。そのとき私は19歳で、家に帰った最後の子供でした。

ブンジャクン・ダインガッティ族出身の故ロレイン・マフィ-ウィリアムズ女史は、(子供時代に受けた心の傷をもちながらも)映画制作者、作家、アボリジニ活動家として成功した。上記の手記は、ロンリープラネットの「Aboriginal Australia & the Torres Strait Islands」(2001年)へ寄稿されたものである。


---ロンリープラネット コラム集---
オーストラリアのアボリジニ ゲーリー・プレスランド
オーストラリアについて
http://special.msn.co.jp/travel/overseas/australia/column/about/02.htm

近年の推定によれば、ヨーロッパ人の侵略が始まった当時、オーストラリア全土には、約100万人のアボリジニがいたとされている。

アボリジニの祖先がオーストラリアに最初に到着した正確な時期を断定することは、今後も不可能だろう。現在推測できることは、約4万6000年前、海面が今よりもっと低かった氷河期におそらく移動の第一波があったということである。アボリジニの祖先は東南アジア地域を経由してやってきた。そして、オーストラリア大陸にたどり着くためには、少なくとも幅70kmに及ぶ水路を越えて航海を行わなければならなかった。到着地点(海面上昇によって水没してからすでに長い月日が流れている)から、アボリジニは比較的短期間のうちにオーストラリアのあらゆる環境の地域へと分散していった。南東部のメルボルン近郊や南西部のパース付近にあるスワン川の古代遺跡の年代は約4万年前まで遡るとされている。ニュー・サウス・ウェールズ州西部のマンゴー湖Lake Mungoにある2つの墓地の年代も、最近同年代のものとして修正された。

オーストラリアは、狩猟採集民族の住む大陸であった。地域によって違いはあるが、この国の多様な生態圏のどこにいようとも、人々は入手可能な自然の資源を最大限に活用して生活していた。しかし、このやり方は全く受け身の行動というわけではなかった。アボリジニは往々にして、狩猟と採集の効率を最大限にするための工夫をしていた。ビクトリア州西部では、ウナギを捕獲するための精巧なワナが製作された。北部湿地帯では、生産性をあげるため芋類の茎根の移植が普通に行われていた。また、大陸全土で、移動や作物の生育を促進させる際に草木を一掃する手段として火が使われていた。多くの地域で、この「火起こし棒による農業」が草原の環境維持に役立ったのである。

文化的な要素は大陸各地で保存され、口承という形で世代を越えて受け継がれている。特に重要視されているのは、先祖が「ドリーミング」の間に世界を創造したという物語を伝承するために歌を歌うことである。力強い物語を伝える短い歌は、特定の場所に関連しているかもしれない。あるいは、一連の歌がひとつに結びつけられるときは、あるひとつのドリーミングの軌跡と結びつくかもしれない。後者の場合は、一連の歌はとてつもなく離れた場所まで伸びた線を表現するソングラインと呼ばれることがある。そういった歌を詳しく知っていることは、個人の中に偉大な力を持つ印であると考えられた。

かつて、オーストラリアとタスマニアには約250種の言語、約700種の方言が話されていた。最も重要な社会集団は部族で、特定の地域と強く結びついていた。土地と毎日の狩猟採集生活のあり方は、切っても切れない関係にあったため、部族の活動のあり方は必然的に土地柄を色濃く反映させることになった。定期的に移動することはあったが、アボリジニは遊牧民ではなかった。むしろ、季節ごとの変化や儀式やトーテム崇拝を行うため自分たちの土地の内部を移動していたのである。初期の移住者たちは、オーストラリア各地に先住民の定住「村」があるという記録を残している。

多くの部族は、広範囲に渡り、物や考え方を交換するネットワークを持っていた。こうしたネットワークのおかげで北部のカーペンタリア湾Gulf of Carpentariaで採れた真珠やイナズマツノヤシという巻貝を、南へ3000km離れたスペンサー湾Spencer Gulfまで運ぶことができたのである。

ヨーロッパ人のオーストラリア定住は1788年1月にシドニーから始まったが、アボリジニはこれに先立つ数百年前からお互いに連絡を取り合っていたのである。15世紀以降、オーストラリアの海岸線は、ヨーロッパからやって来る船によって定期的に確認され、17世紀に入ると、ようやくオランダ船やイギリス船が北西側の海岸に短期間寄港するようになった。18世紀中頃から東南アジアの漁師が沿岸海域で定期的にナマコ漁を行っていた。彼らもアボリジニと取引を行い、多数のアボリジニをインドネシアに連れ帰った。

シドニーの植民地化を皮切りに、オーストラリア全土でアボリジニの土地は徐々に占領されていった。この侵略はありとあらゆる方角から行われ、その土地のアボリジニから抵抗を受けた。辺境地帯での暴力沙汰は日常茶飯事だったが、一方では双方の利益のために協力関係が築かれる場合も多かった。東部の、入植者の人口が多い植民地では、先住民人口への影響は劇的かつ急激なものとなり、入植者によって運び込まれた病気による犠牲者や出生率の急低下が認められた。自分たちの土地を奪われたことは、伝統的なアボリジニ文化の大部分が崩壊した大きな原因となった。

4万年以上にわたって、オーストラリアのアボリジニは、多くの困難に対処するために生活の知恵を編み出してきた。ヨーロッパ人の侵略によって急激かつ大規模な変化がもたらされたが、アボリジニの文化は滅びることなくさまざまな形で現代に受け継がれている。

1960年代後半より、アボリジニを意味する「クーリKoori」(または「クーリーKoorie」)という言葉が広く使われるようになった。これは、オーストラリア南東部に住む多くの部族の言葉で「人々」を意味し、特定の地域にすむ先住民を区別するために使われる同様の多くの言葉のひとつである。クーリはニュー・サウス・ウェールズ州またはビクトリア州出身の先住民を指す。ミューリMurriはクイーンズランド州、ヌンガNungaはサウス・オーストラリア州、ニュンガーNyungarはウェスタン・オーストラリア州のアボリジニをそれぞれ意味する。

1788年初頭、アボリジニの土地が最初に侵略されたとき、オーストラリア大陸は無主地Terra nullius、つまり所有者のいない土地と考えられていた。この勝手な考え方は20世紀後半になるまで広く当然のこととして受け入れられていた。 1968年、ノーザン・テリトリー準州のウェーヴ・ヒルWave Hillで牧畜業を営んでいたグルンジGurundjiのグループが、アボリジニの土地所有権を主張する最初の訴訟を起こした。この訴えは棄却されたが、これをきっかけに、現在でも続いているアボリジニの土地返還要求運動が本格化した。

1982年、トレス海峡のマー島Mer(マレー島Murray Island)に住む、コイキ(エディ)・マボ率いる少人数グループが、自分達の土地の伝統的所有権を確立するために、クイーンズランド州最高裁判所に訴訟を起こした。この裁判は、最終的にオーストラリア連邦最高裁判所に上訴され、1992年、マボたちの要求が認められた。この記念すべき判決は、社会通念となっていた無主地の考えに異を唱え、アボリジニには伝統的な土地の所有権を主張する権利があると宣言した。

その後数年間で、労働党率いる連邦政府は、マボ判決を法制化した。しかし、この法律は放牧リース地については例外としたため、牧畜業内部に混乱を引き起こし、鉱業・資源業界の不信を招いた。また、特にポーリン・ハンソンのような悪名高い人物にたきつけられたアボリジニたちが、土地所有権を主張する訴訟を続々と起こすのではないかとの風評が広がった。

1996年の総選挙の結果、ジョン・ハワード率いる保守政権が誕生した。その直後、クイーンズランド州北部のウィク族が起こした新たな境界訴訟で、最高裁判所は放牧リース権と先住権は共存しうるという判決を下した。アボリジニの土地返還訴訟が急増することを懸念したハワード政権は、急遽この問題におけるアボリジニの権利を制限する行動に出た。10項目から成る先住権法政府改正案が作成されたが、これは事実上、過去の労働党政権による改革の多くを廃止することを意味し、先住権に大きな制限を加えた。この法案の下で、アボリジニは聖地を訪れて儀式を行う、あるいは食物や水といった物資を獲得する目的であれば放牧地に入ることができる。先住権については、それが放牧業者の権利と衝突する場合には抹消された。

ゲーリー・プレスランドはアボリジニの歴史をテーマに幅広い執筆があり、「メルボルンのアボリジニ:クリン族の失われた土地Aboriginal Melbourne: The Lost Land of the Kulin People」の著者。


---アボリジニの夢はいずこ---
ミッシェル・デクースト(Michele Decoust)
著書『オーストラリア、夢の足跡』、ジャン・クロード・ラテス社、パリ、2000年3月
訳・安東里佳子
http://www.diplo.jp/articles00/0010-3.html

 1998年5月26日のことだった。100人ほどのアボリジニたちが、北部準州の行政首都ダーウィンの議事堂前に集まった。この日は謝罪の日、 “National Sorry Day”として、オーストラリア全国で「盗まれた世代」のことが思い起こされた。1960年代の終わりまで1世紀以上の間、政府の命により、白人の血の混じったアボリジニの子供たちは母親から無理矢理に引き離され、「お行儀のよいオーストラリアの子供」になるために、孤児院やホスト・ファミリーのもとへ送られた(1)。“Keep Australia White”つまり「白豪主義」が合言葉だった。最初の入植者による虐殺や居留地内での半奴隷扱いの時代が過ぎると、彼らを「人間以下」の状態から引き上げ、自分がどこからきて誰なのかを忘れさせるために、赤ん坊のときからすぐに力ずくの同化を押しつけることだけが追求された。

 先住民の状況に関する英連邦会議は1937年に「アボリジニの混血児の未来は、白人世界への最終的な吸収にしかあり得ない」と断じ、 1951年にも「すべてのアボリジニたちがオーストラリア白人と同様の生活をするようになるまで、ひたすら同化を目指すべきだ」との立場を繰り返した。警察官や「保護官」はアボリジニ集落に襲撃をかけ、色白の肌の混血児をすべて連れ去ってよいという許可を与えられた。これに震え上がったアボリジニの母親たちは、子供たちの顔に木炭を塗ったり、藪(2)の中に隠したりした。

 州ごとに「保護長官」が任命され、アボリジニ混血児が18歳になるまでの正式な保護者とされた。彼らの報告書を読むとよくわかる。「アボリジニの母親から混血の子供を離すことに、一瞬たりとも躊躇などしない。最初の悲しみを通り過ぎると彼女たちはすぐに子供のことなんか忘れるものだ(3)」(ジェームズ・アイデル調査官、1905年)、「我々は、不道徳や伝染病がはびこるアボリジニ野営地の有害な影響から子供たちを守っているのだ(4)」(クック保護長官、1911年)等々。

 ダーウィンの町に、行列が並ぶ。一人ずつ前に進み、誘拐された子供たちの名前すべてが書き留められた記録に、厳粛に署名する。アボリジニの老婆が嗚咽する。盗まれた世代の死者のために1分間の黙祷を、とマイクから声が流れる。人々は待つ。誰もの視線が議事堂の豪華な扉に注がれる。しかし、議員も大臣も、白人は誰も出てこない。彼らはこの場を立ち去ったのだ。悲しみが怒りに変わる。「お腹が痛む」と、燃えつくような視線でたまりかねたようにマージョリーが叫ぶ。彼女はアフガニスタン人とアボリジニの混血の美しい女性で、家族のもとから、フィリップ・クリーク集落から(藪の中から)連れ去られた過去をもつ。彼女の他にも1歳から5歳の子供たちが15人ほどいた。彼女は3歳だった。1952年のことだ。この頃、オーストラリアは若い民主国家としての誇りにあふれていた。

 「一体いつになったら白人たちは、私たちが彼らと変わらない人間なのだということに気がつくのでしょう。いつになったら、子供を奪うという行為ほど、母親にとってつらいことはないとわかるようになるのでしょう」。マージョリーは孤児院時代の仲間と再会した。少女時代までを一緒に暮らしたディクソン・ホームからすぐ近くで、盛大なピクニックを催した。「彼女たちが私の唯一の家族でした。人々は、母親が私たちを捨てたのだとか、貧乏で無学な両親は私たちを育てられなかったのだとか、私たちに言い聞かせました。私たちには、自分がアボリジニだという意識もありませんでした。白人ではなく、有色人種なのだということさえ理解していなかったのでした。それを私たちに教えたのは近所の人たちだったのです。寄宿舎で、私たちの思い出は何もかもかき消されました。子供時代を思い出そうとすると、大きな穴がぽっかり現れ、自分がからっぽになったような気がしました」

 盗まれた世代の悲劇が日の目を見るようになったのは、1990年代の前半になってからのことだ。キーティング労働党内閣が大々的に始めた調査は、はっきりと“Bringing Them Home”と銘打たれた。まず1994年に、家族から引き剥がされた600人のアボリジニがダーウィンに集められ、“Going Home Conference”が開かれた。そして、1997年4月、報告書が発表された。1885年から1967年にかけてアボリジニの子供の30%から 50%、すなわち7万人から10万人もの子供たちが、生みの母親から引き剥がされて施設に入れられたことを認めるという内容だった。

 報告書に集められた証言は凄惨で、全国に衝撃を与えた。盗まれた世代のアボリジニの団体で、仲間の家系図を再構成し、家族や出身部落を探し出す手助けをしている「リンク・アップ」は、次のように総括する。「私たちは、今ようやく故郷へ帰ることができる。しかし、私たちの子供時代をもう一度生きることは絶対にできない。私たちの父や母、兄弟姉妹、叔母や叔父、私たちの部族をみつけることはできる。しかし、彼らからの愛や心遣いを受けないで過ごした20年、30年、40年という時間を取り返すことはできない。また彼らにしても、私たちから切り離された恐怖と絶望をぬぐい去ることはできない。私たちは、アボリジニとしてのアイデンティティを再発見できるかもしれない。しかし、民族としての私たちを廃絶することを使命とした人々によって私たちの身体、心や魂に刻み込まれた傷は消えないのだ」
最も原始的な人種差別
 このような糾弾口調をとりつつも、アボリジニが主に求めているのは公式な謝罪ということであり、アボリジニ民族の歴史を復権させ、彼らのアイデンティティを認め、彼らの尊厳を回復させることだ。しかし、この国ではあまりにも先進的すぎた(共和制への移行を主張し、ヨーロッパよりアジア諸国との関係を重視した)ポール・キーティングは1996年、首相の座をジョン・ハワードに譲ることになる。ハワード内閣は非常に保守的で、その基盤を地方の多種多様な伝統主義者、現状に何ひとつ不満のない中産階級に置いていた。

 もはや国としての謝罪も、損害賠償のための特別裁判所の設置も、論外となった。すでに認められた賠償金にしても、その三分の二は、いつ決着がつくのかわからない空しい裁判を繰り広げる白人の役人や弁護士へと流れていった。2000年8月11日、連邦裁判所は、盗まれた世代の2人の原告の請求を退けた。裁判官は、60人にのぼる証言や、3000件の証拠書類、そして2人の犠牲者の心の大きな傷を意味あるものと認めず、以下の結論を述べた。「2人の略取は当時の法律に反したものではなかった」

 国連人権委員会からの度重なる批判にもかかわらず、2000年4月、ハワード内閣は(アボリジニ問題担当大臣の口を通じて)次のように言ってのけた。「親から無理矢理に連れ去られたアボリジニの子供たちは10%にも満たないし、その中の一部にはもっともな理由があった。これは世代などと呼ぶほどのものではない。しかし、数十家族については、それぞれの事情に応じて検討されることになるだろう」。こうなると、あまりにも甚だしい否認であり、“Sorry Day”の翌日5月27日、壮大なデモ行進がシドニーの橋の上で繰り広げられた。2時間にわたり20万人の黒人、白人が手に手を取りあって伝説のハーバー・ブリッジにあふれた。唖然とする事件だった。誰もこのような大結集を予想だにしなかった。

 しかし、アボリジニのリーダーや選手がシドニー・オリンピックの機会を利用して彼らの権利を世界中に訴えると決然と宣言しても、政府は頑として動かなかった。実際のところ、真の議論や本来の問題は別のところにある。それは、オーストラリア大陸の歴史の根源、そしてオーストラリア精神の影の部分に横たわっているのだ。

 「アボリジニは多くのオーストラリア人の目に、必ずしも人間として映っているわけではありません。野生動物に近い下等人種として映っているのです。私たちは、地球上でもっとも根深く、最も原始的な人種差別と戦っているのです! この大陸へ乗り込んできた白人たちは、私たちをその辺のウサギのように撃ち殺し、私たちの文化、言語、民族を根絶しようとしてきました。彼らの憎しみは非常に大きく、私たちは今では30万人にも満たないのに、まるで何百万人もいるかのような『恒例の主題』、足に刺さったとげと見られているのです」。このように熱烈に語るマーシア・ラングトン女史は、ダーウィン大学の人類学教授であり、長い間国連でアボリジニの広報役を務めてきた。「私たちの問題をアイルランドの和解や南アフリカの交渉と同じように語ることはできません。1900万人を数えるオーストラリア人の中で、私たちの歴史にかかわりがあり、倫理的な問題があると感じているのは、たかだか100万人にすぎないのです」

 つい最近までの植民地政策の歴史が、この国の二つのコミュニティの関係に今もなお重くのしかかっている。それは数々の虐殺、次いで公には同化を目的とした(実際には緩慢な民族虐殺でしかなかった)居留地への場当たり的な統合の歴史である。しかし、1972年のホイットラム労働党内閣の登場により、希望の光がさした。同内閣は発足時、部族の土地の回復を求めるアボリジニの要求に応えるという意味で、一握りの赤土をアボリジニのリーダーの一人に返還するという象徴的な儀式を行った。「我々すべてのオーストラリア人は、この国でアボリジニに正しい地位を拒絶するならば、恥知らずということになる」と首相は簡潔明瞭に述べ、土地の返還を公約した。この動きはもはや後戻りできないところにきており、アボリジニの土地の三分の二まで北部準州の土地を返還することが約束された。土地問題協議会が各地で開かれ、アボリジニの要求を聞き、石炭会社との採掘権や対価の交渉に携わった。
異なる法、異なる価値観
 1980年代の歴代内閣は、特長ある価値と文化をもつアボリジニを民族として認め、「民族的アイデンティティや伝統的な生活様式を確保すること、あるいは部分的にヨーロッパ式の生活様式を取り入れること」を基本的な権利として認めた。しかし、オーストラリアが国として、本当にこの問題にメスを入れたのは、1992年6月の「マボ判決」においてだった。最高裁判所は、トレス海峡の島に住むエディ・マボ氏に対し、先祖伝来の土地の返還を認めるという注目の判決を下し、まさに歴史を書き換えることになった。

 初めて、部族の土地所有権(Native Tilte)が認められたのだ。この裁判に勝つために、マボ氏はこの土地に彼の先祖が代々住んでいたという証拠を提示しなければならなかった。

 この判決は連邦法によって追認され、オーストラリア全土に拡張され(適用対象はアボリジニの10%にすぎないものの、面積では数千キロ平米に及ぶ)、過去2世紀にわたって英国法のもとで重ねられた判例とオーストラリア人の無意識に刷り込まれた信念をはっきりと無効にした。1992年まで、オーストラリアの公式な説は「無主地」、つまり無人の土地というものだった。平たく言えば、アボリジニは人間ではなく、新たにやってきた入植者たちは、まるで処女大陸に最初に足を踏み入れたかのように、土地を自分のものにしたのである。

 しかし、この20年間の前進にもかかわらず、数字に示される現実は衝撃的だ。白人に比べてアボリジニの平均寿命は20歳も下回り、子供の死亡率は4倍、失業率は3倍、平均収入は白人の半分、禁錮者と自殺者の割合は5倍、等々。それだけでなく、アボリジニ全体に広がったアルコール中毒による緩慢な自殺、若者の間に蔓延したペトロル・スニッフィング(ガソリン蒸気の吸引)といったものもある。数々の施策ができても、白人社会へ同化することは依然として不可能であるかのようだ。

 「二つの文化、二つの文明はあまりにも違いすぎるのです。価値観が正反対だと言えるほどです。その上、出会ってから、たった2世紀しかたっていません。例えばピントゥビのように、アーネム・ランドや中部砂漠地帯に住む部族には、ほんの50年前に初めて白人を見たという人々もいます。彼らは一瞬のうちに、狩猟採集を営む先史時代の生活から、トヨタ車やスーパーマーケットが居並ぶ20世紀の生活に移行したのです。この激変は、核爆発のようなものです」と語るのは、ギリシャ系オーストラリア人のクーラ・ルソス女史で、盗まれた世代のアボリジニを専門とする弁護士だ。「アボリジニの集落を訪れ、彼らのために建てられた家を横目に、彼らが野外で暮らしているのを見る度に、庭付き一軒家を持つというオーストラリア白人の生涯の夢と引き比べ、この二つの溝はどうしようもないと感じるのです。私自身、弁護士として彼らに私たちの法律が何なのかを理解してもらうのに、とにかく頭を痛めています。というのも、たとえ大抵のアボリジニが『ドリーム・タイム』という部族の法(5)に従った生活をしなくなったとしても、彼らには今もその価値観、我々とは違う正義が染みついているからです」

 ありとあらゆる交渉レベルに、まるで聞く耳を持たぬ者同士の対話が際限なく繰り広げられているといったおもむきが感じられる。一方には、進歩と管理、そして制覇へと向かう競争と物質主義の白人の世界がある。他方には、精神をより重んじる黒人の世界がある。そこでは、人間はすべての生き物と結びついていて、その人生は大地を讃え、人間を造った『ドリーム・タイム』の英雄たちを讃えるためにあり、生命の再生と永続を可能にするための儀式が大切にされる。

 「私たちのアイデンティティはどこにあるのか」と、西オーストラリア州ブルーム市に住む映画監督・音楽家のウェイン・バーカーは問いかける。「アボリジニはみな、4万年にわたる文明の遺産を受け継ぐとともに、それを自分に合わせて変えていくことができる。以前は、私たちの文化は口承によって子孫代々へ伝えられてきた。今は、ラジオ、テレビ、映画がある。通過儀礼さえも都市生活に応じたものになり、何カ月もかけることなく、現代の仕事のリズムに合わせるようになった。しかし、白人の法に従い、彼らの基準で自分をわかってもらうというやり方では、うまくいくはずがない。私たちの創世神話、精神の物語と儀式、土地への聖なる一体感、そして私たちの『アボリジニ性』を、どうやって血液検査やサイン、所有権法や有刺鉄線つきの杭などといったもの、つまり物事を区分けしたり分離するようなもので、評価できるというのか」

(1) ロマ族の子供たちの略取については、ローランス・ジュルダン「スイスが行ったジプシー狩り」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年10月号)参照
(2) オーストラリアの低木地帯。広義では都市化されていない地帯すべてを指す。オーストラリア全土の90%を占める。
(3) オーストラリア政府の報告書“Bringing Them Home”からの抜粋(キャンベラ、1997年)
(4) 同上
(5) アボリジニにとって、大地には、すべての生物を創造した「ドリーム・タイム」の英雄たちの足跡が刻まれている。これらの英雄たちは、今でも宇宙の力(自然の豊かさ、女性の多産、雨、風)に働きかけ、人間を眠りの中で導くという。
(2000年10月号)

* * 第一段落「力づくの同化」を「力ずくの同化」に訂正(2005年10月7日)

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