2008年7月20日日曜日

厚労省 HIV感染者差別か

厚労省がHIV夫婦の体外受精を検討が必要とのこと。
病院は、精子からHIVを完全に取り除く技術を確立しており、夫のみが感染者
である約60組の夫婦が子供を授かっている。
花房秀次は「社会的な議論があった方が、その後に幅広い夫婦に実施すること
につながると考え、要請を受け入れた。一方で、夫婦はすでに1年以上も
体外受精を待っており、早く方向性が見えることを期待したい」と話している。

体外受精による子供への感染リスクや両親の病状が重いケースで育児体制等
の問題は確かにあるが、リスクコントロールは医師の説明のもと両親が判断
すべきだろう。HIV感染者でなくても両親が重病になる確率は多少違うだけだ。
出生率が低いから移民を受け入れ、日本国の出生率を下げることが目的か。
厚労省はハンセン病官製差別のように、ホルマリン漬け胎児の研究を復活する
つもりなのだろうか。


---HIV夫婦の体外受精に待った 「倫理的な検討必要」と厚労省---
2008.7.19 18:39
http://sankei.jp.msn.com/life/body/080719/bdy0807191844002-n1.htm

 共にエイズウイルス(HIV)に感染している夫婦に対し、荻窪病院(東京都杉並区)が実施しようとしていた国内初の体外受精が、厚生労働省から「倫理的な検討が必要」と指摘を受け、中断していることが19日、分かった。厚労省の研究班が28日に、HIV感染者や医療関係者らを交えた公開会議を開き、妥当性や問題点を議論する。
 国内では昨年1年間に新たに確認されたHIV感染者が、初めて1000人を超えるなど、感染が拡大している。今後、感染者同士が夫婦となり、子供を欲するケースも増えることが予想される。そのため、体外受精を行った場合に、子供への感染リスクをどうとらえるかといった点や、両親の病状が重いケースで育児体制をどうするかといった点でさまざまな議論が出そうだ。
 荻窪病院によると、今回の体外受精については、院内の倫理委員会で平成19年1月に申請が承認されている。しかし、その直後に厚労省から「倫理的な検討が必要」として、中断を求める要請があった。
 受精が中断しているのは関東と東海地方に住む20~30代の2組の夫婦。
 すでに荻窪病院では、夫の精子からHIVを完全に取り除く技術を確立しており、夫のみが感染者である約60組の夫婦が子供を授かっている。病院ではこの技術を応用する予定だった。2組の夫婦はいずれも、妻の状態が安定しているため、母子感染の可能性は0・3~0・4%程度に抑えられる見込み。
 荻窪病院の花房秀次副院長は「社会的な議論があった方が、その後に幅広い夫婦に実施することにつながると考え、要請を受け入れた。一方で、夫婦はすでに1年以上も体外受精を待っており、早く方向性が見えることを期待したい」と話している。


---エイズ感染夫婦の体外受精中断、「議論・検討を」と厚労省---
2008年7月19日14時35分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080719-OYT1T00401.htm

 昨年1月、荻窪病院(東京都)倫理委員会が承認した、共にエイズウイルス(HIV)に感染している夫婦への国内初の体外受精が、厚生労働省から「社会的な議論と倫理的な検討が必要」と求められ、中断していることがわかった。
 海外でも、こうした夫婦への生殖補助医療の可否について議論が分かれる。この体外受精を計画している同省研究班は、広く意見を聴く異例の公開班会議を28日に開き、実施の可否を検討するとともに、指針を作る方針。
 荻窪病院の花房秀次副院長らは、精子からHIVを取り除く方法を開発。これを用い、夫のみが感染している夫婦に慶応大や新潟大などで体外受精を行い、65人の子供が生まれた。母子ともに感染の例はない。
 同病院では、厚労省研究班の研究事業として、この方法を共に感染している2組の夫婦にも適用しようと準備してきた。いずれも、血液製剤で感染した夫が、増殖能力の強いウイルスや薬剤耐性ウイルスを持っている。性交渉をすると、ウイルス量が少なく、免疫状態も安定している妻に、夫のウイルスが再感染し、病状を悪化させる恐れがある。
 だが、病状が重いと子供が成長する前に両親が亡くなることも想定される。海外でも、2004年に欧州連合などの専門医らで作る特別委員会が「少なくとも片方の親が子供の成人まで養育すべきだ」として、生殖補助医療は片方の親が感染している場合のみに限るように勧告。これに対し英国の研究者が「感染者の予後は同じではない。(認めないことは)希望するカップルの生活の質を低下させる」と反論している。
 薬害エイズ被害者らで作る、はばたき福祉事業団(東京都)の大平勝美理事長は「一番大切なことは新たな悲劇を作らないこと。感染した場合の責任についての議論が必要」という。さらに万一、子供が成人する前に両親が亡くなった場合のサポート体制が不可欠で、「社会的援護も必要になる。もし実施するとしても広くコンセンサスを得ながら進めるべきだ」と語る。
 一方、花房副院長は、「感染者の中には、生命予後が普通の人と変わらない人もいる。妻のウイルス量が検出できないほど少なければ、母子感染の可能性は0・5%以下だ。今回はそのケース。子供を持ちたいという夫婦の願いと、子供の幸せを両立させる方法があるはず。多くの人の考えを聴きたい」と話す。
 公開班会議は28日午後1時から、東京・信濃町の慶大医学部東校舎で。専門医のほか、薬害HIV訴訟原告団の代表、カウンセラーなどが出席する。


---[噂]日本のハンセン病問題---
Wikipedia 最終更新 2008年7月18日 (金) 02:54
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%97%85%E5%95%8F%E9%A1%8C

日本の療養所
現状
 現在、全国13か所の国立ハンセン病療養所と全国2か所の私立ハンセン病療養所(神山復生病院・待労院診療所)に約3,100人(3,079人・2006年5月1日現在)が入所している。ほとんどがすでに治癒している元患者である。平均年齢77.5歳(80歳以上の高齢者が全体の38%、70歳以上が80%)である。さらに寝たきり者は全国平均で7.1%、認知症は9.0%、年間の死亡者数は全国で200~250 人である。高齢と病気の後遺症による障害、さらにかつて強制的に行われた断種手術、堕胎手術のために子供がいない元患者が多いことから、介護を必要として療養所に入所しているのが実情である。また、社会復帰するための支援を行っているが、実際に社会復帰できた例は少ない。
 現在の療養所に於いては、一部を除いて医師の定員さえ確保されておらず、医療機器の整備も十分でないため、療養所内でできるハンセン病の医療や一般的な疾患以外の医療は、外部の医療機関(病院)に委託診療を行うことがある。外部の医師を呼ぶ場合と、外部の病院の外来に入所者を送る場合があるが、後者の場合は通常、療養所の福祉係または看護師が同行する。他に入所者が外部の病院に入院することもある。年々入所者の数は減る一方であり、入所者にとっては死ぬまで退所・転園することなく最後まで国に面倒をみてほしいという希望がある。政府は、法的責任を踏まえた上で最後まで面倒をみると保障している。各療養所には、納骨堂(のうこつどう)と呼ばれる重要な施設がある。家族に引き取られなかったお骨を納める場所となっている。水子の霊を弔う碑がある療養所もある。

日本の療養所の独自性 
 日本中にハンセン病療養所は13箇所あるが、各々独自の歴史、自治会、環境、県民性その他色々な条件のために、その雰囲気は各々異なる。時には大きな問題の取り扱いについて、入所者の意見の集約ができにくい、ということもあった。「らい予防法」廃止前のような時などである。全国ハンセン病患者協議会:らい予防法改正問題に関する意見 「わたしはこう思う」1994. 入所者は自由に他の療養所に移動してもよいが、それは勿論、相手の療養所が認めた場合である。特に初回入所の時は、知った人々に会いたくないという理由で自由に療養所を選んでいた。例えば、菊池恵楓園には、色々な県から入所される一方、熊本県の人が他の県の療養所に入るといったこともある。石垣島の人が、近くの宮古南静園を避け、沖縄愛楽園に入所されるのは普通であった。他の園の優れた医療をうけるため、一時移動する、というのは普通であった。そのために大きな療養所には医療センターが設けられた。透析のため、外科手術のため、形成外科的手術のため、眼科手術のため、ほかにありとあらゆる医療のためである。
 文化的にも種々さまざまで、園内の雑誌を中心に文芸が盛んな療養所、芸能が盛んな療養所、運動が盛んな療養所、園芸が盛んな療養所などがある。文芸に関しては全国レベルで活躍する人もいる。
 対社会的にも、いろいろ異なり、とくにらい予防法が廃止になってから、急に社会との交流も増えたが、療養所ごとに交流の程度、やり方など異なっていた。例えば宮古南静園では、以前からゲートボールチームは社会と交流していたが、沖縄愛楽園では、それが大幅に遅れた。文化的にも地域性があり、沖縄愛楽園では、琉歌も作られていた。文化サークルの指導者は有名な方々もおられ、園外から求められていた。昔から囲碁将棋の強い方がおられ、囲碁将棋のサークルは各園とも熱心であった。カラオケクラブも盛んである。 宮古南静園入園者自治会:創立70周年記念誌,2001.
 療養所の行く末に関する議論が盛んであるが、入所者は、いろいろある療養所の合併に異常に危惧の念をもっていることは、この説明でわかるであろう。たとえ近いからといって、沖縄愛楽園と宮古南静園では、歴史が違い、雰囲気が違い、文化が違い、言葉が違うのである。合併などとんでもない、と思っているのである。


近代のハンセン病政策
太平洋戦争前
 1897年、ベルリンで第1回ハンセン病国際会議が開かれ、「ハンセン病は感染症だから隔離する」と決められたが、その隔離については病状に応じて行う相対的隔離を原則としていた。そして、日本でも予防法の制定への気運が高まり、1907年(明治40年)に「癩予防ニ関スル法律(癩予防法)」がはじめて制定された。この法律の下、全国に5ヶ所の癩療養所を設けた。当時の設置・運営は道府県の連合により行われており、公立療養所であった。第1区(東京府 全生病院)・第2区(青森県北部保養院)・第3区(大阪府 外島保養院)・第4区(香川県 大島療養所)・第5区(熊本県九州療養所)の5箇所である。その療養所の所長は、現在のように医師ではなく、警察官上がりの官僚がほとんどであった。例外的に、九州各県連合立の第5区九州癩療養所(2年後に癩を省く)では、1909年に医師である河村正之が初代所長に就任した。彼は医師の立場から、日本型絶対隔離政策が推進されていくことに危惧し、積極的に隔離政策に反対し、治癒後は積極的に社会復帰させるべきだ、と主張を繰り返していた人物である。暫くして他の療養所所長も医師が就任した。当時の日本の法律は、放浪患者の救済・取り締まりの意味合いが強く、家庭が裕福であると帰したり有料にしたりした。1916年、療養所から患者の逃走が増加したため、法改正を行い懲戒検束規定が設けられた(懲戒検束権については別項参照)。1931年(昭和6年)、光田健輔の尽力により2度目の改正が行われ、隔離の対象が浮浪者のみであったのを自宅療養している人にも対象を広げることになった。すなわち、感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策(強制隔離政策)が主目的であった。また、この頃より国立療養所が次々に作られた。最初に作られた国立療養所は、岡山県の長島愛生園である。また、1941年には、今まであった公立療養所を国立に移管した。こうして、私立療養所を除いて、国が一括して管理する体制が作られ、患者の収容が一層、強化されることになった。1941年(昭和16年)、京都大学皮膚科特別研究室主任の小笠原登が、強制隔離政策反対の意見を日本らい学会で発表したところ糾弾される事件も起きた。戦前から戦後にかけて、京都大学、大阪大学、東北大学、九州大学の皮膚科において、ハンセン病の外来診察治療を行っていた。制度外であったので、いろいろ苦労苦心があった。また民間には、良心的でない、怪しい治療をおこなう所もあった。

患者懲戒検束権
 1914年(大正3年)、光田健輔が公立癩療養所全生病院院長に就任し、患者懲戒検束権といって、各施設内に監房を作り所長の一存で患者を投獄できるようにした。1938年には、群馬県栗生楽泉園に特別病室という名の牢獄が設置された。全国から懲罰を受けるために患者が送られた。冬季にはマイナス20度という環境になり、また減食という厳罰が行われたりするなど、過酷な条件のため多数の死亡者が続出した。この特別病室は、戦後、共産党の調査団により明らかになった。その一方、患者懲戒検束権は完全に否定的な面があるわけではない。ハンセン病患者が犯罪を犯した場合には、刑務所に入らずに療養所に収容されるのみで刑を免れることが可能であった。1950年、栗生楽泉園内で入所者同士の争いによる殺人事件が勃発したのをきっかけに、1953年、乱用を防ぐための一定の条件をもとに患者懲戒検束権を認め、熊本県の菊池恵楓園に隣接して熊本刑務所菊池医療刑務支所が設置された[4]。

断種・優生政策
 光田健輔は、1915年にはじめて、入所患者の結婚の条件として男性に断種、女性には中絶、堕胎の強要を行った。これは日本における優生政策の一環として行われたものである。1940年に国民優生法、1948年に優生保護法が成立。後者において、ハンセン病は遺伝疾患でないにもかかわらず適用疾患と記載され、人工妊娠中絶が行われた。なお、違法な強制人工妊娠中絶が横行し、患者が出産した新生児を職員が殺害したとする証言から次々に実態が明らかになりつつある。しかし、依然として謎の部分も多い。このときの胎児や新生児の遺体とみられる標本が全国に115体保存されていることが厚生労働省により設置された第三者機関、「ハンセン病問題検証会議」によって2005年1月27日報告され、検証作業が提議されている。なお、1997年の法改正により、法律名が母体保護法となり、ハンセン病は適応疾患から除外された。

太平洋戦争後
 戦後昭和22年12月旧警察法(昭和22年法律第196号)により、療養所以外のハンセン病行政は県に移行した。国の警察が自治体警察に移ったからである。昭和25年の患者届出では、県知事宛のものがある。その後、1953年(昭和28年)に、癩予防法から「らい予防法」に改定された。(「癩」は当用漢字に制定されていないため、平仮名表記となった。)しかし、それは従来の癩予防法による強制隔離政策を踏襲するものであり、療養所の入所者に対する待遇は全く変わらなかった。この時から、届け出は警察署長宛てから、県知事宛てに代わった。入所前、および退所後の患者の世話、入所後の家族の世話などは、県の係官が極秘のうちに行った。医療に関することは、県が指定する「らい指定医」と協力して行った。県単位で、出身地を回る旅行なども県が主催した。裁判後、国は入所者に陳謝したが、県知事も療養所に陳謝に行った県があったが、上述の理由による。
 世界的には、1956年にローマ宣言が採択され、らい患者の救済と社会復帰の推進がうたわれたり、1958年には東京で開かれた第7回国際らい学会で強制隔離政策をとる政策を全面的に破棄するよう批判されたが、国は全く聞き入れようとしなかった。「らい予防法」に対する抗議のため、菊池恵楓園の患者が作業放棄闘争を起こした。各園でも次々に、作業放棄を行う事件が起こった。これは従来、療養所が行うべき作業(介護、看護も含む)を入所者に行わせていたので、それを返上しようということである。軽症者が重症者を介護することは当初は全部の療養所で行われていたし、また、作業などで、傷の悪化をきたすこともあった。政府は職員を増加させ、特に看護の仕事は看護婦にさせるように努力した。一方、琉球政府は1961年「ハンセン氏病予防法」を公布し、外来医療・在宅医療を推進する政策がとられていた(本土復帰後も継続して実施された)。

現代の状況
 「らい予防法」は1996年(平成8年)4月1日に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」によってようやく廃止された。一般の病院や診療所で健康保険で治療できるようになった。
 近年は、ハンセン病に対する理解とハンセン病患者に対する国民の意識が変わり、ハンセン病患者やその家族に対する差別は緩和されてきた。しかしその一方で、ハンセン病元患者のホテルへの宿泊を拒否するなどの事件が、その後も度々起きており差別が完全になくなったわけではない。
* 元患者が金沢市内のホテルで宿泊を断られた報道があり、石川県が2001年7月5日付けで、「ハンセン病は『伝染性の疾病』には該当しません」という内容の通達を出したことがある。
* 2003年11月、療養所入所者のアイレディース宮殿黒川温泉ホテルへの宿泊が拒否された問題(ハンセン病元患者宿泊拒否事件)に対しても、療養所やホテルを所轄する厚生労働省は、「ハンセン病について旅館業法第5条第1号及び公衆浴場法第4条にいう『伝染性の疾病』には該当しません」と明記した通達を出した。
* やむを得ず、自分、家族や社会の事情で療養所生活を選んだ入所者は療養所内で、療養、趣味、社会交流などの日々を過ごしている。勿論外出、旅行、海外旅行も自由である。それらの事情は、園が発行している雑誌や、ホームページなどで知ることができる。また、療養所などの見学には、各園の福祉課、福祉室などが相談にのる。


差別・スティグマに関するトピックス
*第二次小泉改造内閣の法相・南野知惠子は2005年1月11日の閣議後会見で島根県平田市(現在 出雲市)で前日に開かれた島根県議の新年会でハンセン病について言及した際、旧病名の「らい」との表現を繰り返したことを明らかにし、「差別や偏見のつもりはなく、看護(職)の経験から、つい長年使っていた言葉が出た。本当に申し訳ない」と謝罪した。
*スティグマ
 社会学用語。大谷藤郎の「現代のスティグマ ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難」で知られるようになったが、古くは鶴崎澄則が記載している。「らいの社会的スチグマについて」愛生 昭和32年7号。 スティグマは、もともとはギリシアで奴隷・犯罪人・謀反人であることを示す焼き印・肉体上の「しるし」のことで、汚れた者・忌むべき者というマイナスイメージが肉体上に烙印されたものである。のちにカトリック教会では、十字架上で死んだキリストの五つの傷と同じものが聖人=カリスマにあらわれるということから、「聖痕」の意味に転化した。このような由来をもつため西欧では日常語として使われている。とくに学術用語としてはアーヴィング・ゴッフマン(Erving Goffman)が使った。 スティグマとなりうる属性としては、病気・障害・老齢などの肉体的特徴、精神異常・投獄・麻薬常用・アル中・同性愛・失業・自殺企図・過激な政治運動などから推測される性格的特徴、人種・民族・宗教に関わる集団的特徴などがある。勿論ハンセン病患者もこれに該当する。人びとは、スティグマのある人を対等にあつかわず差別し、多くは深い考えもなしにその人のライフチャンスをせばめている。ハンセン病の文献としては Jopling WH.Leprosy stigma.Lepr Rev. 1991 Mar;62(1):1-12. に詳しい。

*差別の習慣
ハンセン病が差別されている時代、自分の家の墓に納骨されないことが普通であった。小舟での上陸時、わざわざ別の船着き場を使用していたことが記録されている。宮古島の離島、池間島のある浜は、昭和30年代に南静園に隔離されている島出身の患者の接岸地であった。マズムヌヒダガマ(悪霊浜)といいウトルス(脅威)の地であった。周りは青々としてアダン、アザミ、ハマヒルガオが生い茂りいい知れない匂いも強烈であった。海での事故死の時も使われたこの船着き場が現在も残る。菊池一郎:船着場が違う 青 No.3 平成12年。


ハンセン病療養所と性
 回春病院というキリスト教系の病院では、結婚は禁じてあったのだが、日本の療養所では、結婚していいことになった。当時の最も多い患者さんは若い患者さんであった。光田健輔は最初は生まれた子供を養育してくれる人を探していたが、産ませないという結論に達したようだ。悲喜劇が多かった。最初は大部屋しかないのだが、女性の大部屋に男性が通うということである(そのため、医師はここには往診しなかった)。いわゆる通い婚である。人権蹂躙も甚だしい。夫婦の為の部屋が戦後菊池恵楓園に出来たときは壁がかわかないのに入所したそうだ。菊池恵楓園50年史。国立療養所菊池恵楓園 1960年3月。

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