2009年1月31日土曜日

2009ダボス会議

今年のテーマは「危機後の世界の形成」。
サブプライム問題が主要議題のひとつ、その後の世界的な景気後退を受け、
今年は金融危機への対応に議論が集中。
麻生太郎は1兆5000億円以上の支援方針を表明。
金融危機対応では金融市場の監督体制導入や、格付け会社への規制など
「市場のルール再構築」の重要性を指摘。貿易、投資の保護主義拡大阻止や
内需拡大に取り組むべきだと訴える。

金融問題の議論に金融担当が参加せず、何を話合うのだろうか。
新自由主義の恩恵を受けていた国家が多いのに市場のルール再構築は
誰も信じないだろう。
大量人員整理を行うグローバル企業100が持続できそうと選ばれている。
政務不履行間際といわれる英国や米国の企業の多いが信用できる評価なの
だろうか。
昔は優秀だったSONY、IBM等が見当たらない。変化は激しい。


---首相、アジア支援に1兆5千億円 ダボス会議で表明---
2009/01/31 17:11
http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009013101000360.html

 【ダボス(スイス東部)31日共同】麻生太郎首相は31日昼(日本時間同日夜)、世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」で特別講演する。世界的な金融危機で失速を余儀なくされているアジアの成長強化に向け1兆5000億円以上の支援方針を表明。地球温暖化対策では2020年ごろまでの日本の温室効果ガス削減の中期目標を「6月までに公表する」と言明し、途上国の温暖化対策支援も打ち出す。
 首相は「世界第2位の日本経済が活力を取り戻すことが、何よりも日本の責務」と述べ、事業規模75兆円の景気対策により早期の不況脱出を目指す決意を強調する。
 温室ガス削減の中期目標については「裏打ちのない宣言ではなく、経済面でも実行可能で地球全体の温暖化対策に貢献するものにしたい」と説明する。
 金融危機対応では金融市場の監督体制導入や、格付け会社への規制など「市場のルール再構築」の重要性を指摘。貿易、投資の保護主義拡大阻止や内需拡大に取り組むべきだと訴える。
 首相はテロ対策や新たな国際貢献に取り組む姿勢を示した上で、ソマリア沖の海賊対策に「自衛艦を派遣する」と明言。


---持続可能な100社:日本からトヨタ、クラレなど15社---
http://mainichi.jp/select/biz/news/20090130mog00m040048000c.html

 カナダの出版社「コーポレートナイツ」が28日(現地時間)発表した「世界で最も持続可能性のある企業100社」に、日本からNTTドコモやクラレなど15社が選ばれたことが分かった。
 同社は05年から、米投資調査会社「イノベスト」の調査分析を元に、世界の主要企業約1800社の中から、環境的・社会的・企業運営的に優れている会社を評価、上位100社を選んでいる。28日からスイス・ダボスで開かれている「世界経済フォーラム年次総会」(ダボス会議)に併せて発表した。
 日本企業では、クラレ、NTTドコモ、リコー、トヨタ自動車が5年連続で選ばれ、ほかにイオン、ダイキン工業、JR東日本、本田技研工業、三菱重工業、日本郵船、NTTデータ、パナソニック、積水化学工業、損保ジャパン、凸版印刷が入った。
 国別では、米国(20社)、英国(19社)、日本、フランス(8社)、ドイツ(7社)の順。日本企業は、初回5社から、06年10社、07年13社、08年13社と増加している。【浜田和子】


---The 2008 List---
The Global 100 list for 2008 (alphabetical | by country | by sector/industry)
http://global100.org/2008/index.asp



The 2008 List


The Global 100 list for 2008 (alphabetical | by country | by sector/industry)



































































































































































































































































































































































































































































































































































































Company Name
Country
GICS© Sector
3I Group PLC United Kingdom Financials
Acciona SA Spain Industrials
Accor France Consumer Discretionary
Adidas Salomon Agency Germany Consumer Discretionary
Advanced Micro Devices United States Information Technology
Agilent Technologies Inc United States Information Technology
Air France-KLM France Industrials
Alcoa Inc United States Materials
American International Group Inc United States Financials
Atlantia Italy Industrials
Atlas Copco AB Sweden Industrials
Australia And New Zealand Banking Group Australia Financials
Babcock & Brown Australia Financials
BASF AG Germany Materials
Baxter International Inc United States Health Care
British Land Company PLC United Kingdom Financials
British Sky Broadcasting Group PLC United Kingdom Consumer Discretionary
BT Group PLC United Kingdom Telecommunication Services
Cable & Wireless PLC United Kingdom Telecommunication Services
Cattles PLC United Kingdom Financials
Centrica PLC United Kingdom Utilities
Coca Cola Company United States Consumer Staples
Credit Agricole SA France Financials
Daikin Industries Limited Japan Industrials
Denso Corp. Japan Consumer Discretionary
Deutsche Boerse AG Germany Financials
Deutsche Post AG Germany Industrials
Dexia Belgium Financials
Diageo PLC United Kingdom Consumer Staples
Eastman Kodak Company United States Consumer Discretionary
Electrocomponents PLC United Kingdom Information Technology
Fabege AB Sweden Financials
Fortum Corp. Finland Utilities
FPL Group Inc United States Utilities
Fresenius Medical Care AG Germany Health Care
General Electric Company United States Industrials
Genzyme Corp. United States Health Care
H & M Hennes & Mauritz AB Sweden Consumer Discretionary
Hbos PLC United Kingdom Financials
Hewlett-Packard Company United States Information Technology
Honda Motor Company Limited Japan Consumer Discretionary
Iberdrola SA Spain Utilities
Inditex SA Spain Consumer Discretionary
ING Groep NV Netherlands Financials
Insurance Australia Group Australia Financials
Intel Corp. United States Information Technology
Johnson Matthey PLC United Kingdom Materials
Kesko Corp. Finland Consumer Staples
Kuraray Company Limited Japan Materials
Lafarge France Materials
Land Securities PLC United Kingdom Financials
Liberty International PLC United Kingdom Financials
L'Oreal France Consumer Staples
Marks & Spencer Group PLC United Kingdom Consumer Discretionary
Matsushita Electric Industrial Company Japan Consumer Discretionary
Mayr-Melnhof Karton AG Austria Materials
Mitchells & Butlers PLC United Kingdom Consumer Discretionary
Mitsubishi Heavy Industries Limited Japan Industrials
MTR Corporation Limited China Industrials
Neste Oil Corporation Finland Energy
Nestle Switzerland Consumer Staples
Nexen Inc Canada Energy
Nike Inc United States Consumer Discretionary
Nippon Yusen KK Japan Industrials
Nokia Corporation Finland Information Technology
Novo Nordisk A/S Denmark Health Care
Novozymes A/S Denmark Materials
NSK Limited Japan Industrials
NTT Docomo Inc Japan Telecommunication Services
OMV AG Austria Energy
Pinnacle West Capital Corp. United States Utilities
Reed Elsevier PLC UK/Netherlands Consumer Discretionary
Ricoh Company Limited Japan Information Technology
Rio Tinto PLC UK/Australia Materials
Roche Holdings Limited Switzerland Health Care
Royal Bank Of Canada Canada Financials
Royal Bank of Scotland United Kingdom Financials
Royal Dutch Shell PLC UK/Netherlands Energy
Sainsbury (J) PLC United Kingdom Consumer Staples
Saipem Italy Energy
SAP AG Germany Information Technology
SCA AB Sweden Materials
Scania AB Sweden Industrials
Sekisui Chemical Company Limited Japan Consumer Discretionary
Serco Group PLC United Kingdom Industrials
Smith & Nephew PLC United Kingdom Health Care
Societe Generale France Financials
State Street Corp. United States Financials
Swiss Reinsurance Company Switzerland Financials
The Capita Group PLC United Kingdom Industrials
Tietoenator OYJ Finland Information Technology
Toppan Printing Company Limited Japan Industrials
Toyota Motor Corp. Japan Consumer Discretionary
Transcanada Corp. Canada Energy
Unilever PLC UK/Netherlands Consumer Staples
United Technologies Corp. United States Industrials
Vestas Windsystems A/S Denmark Industrials
Walt Disney Company United States Consumer Discretionary
Westpac Banking Corp. Australia Financials
Yell Group PLC United Kingdom Consumer Discretionary

 


 






---「反ダボス会議」が開幕 反グローバリズムを掲げ、ブラジルで---
2009.1.28 11:52
http://sankei.jp.msn.com/world/america/090128/amr0901281200015-n1.htm

 世界経済フォーラムの年次総会「ダボス会議」に対抗して反グローバリズムを訴える有識者や非政府組織(NGO)が集う「第9回世界社会フォーラム」(通称・反ダボス会議)が27日、ブラジルのベレンで6日間の日程で開幕した。ロイター通信などが報じた。
 ベレンはアマゾン川の河口の町。アマゾンの熱帯雨林の違法伐採問題や世界各地に不況をもたらしている金融危機などをテーマに討論、約10万人が参加する見込みで、ブラジルのルラ大統領やベネズエラのチャベス大統領も出席する。
 同フォーラムは2001年にブラジルで始まり、これまでにインドなどで開かれた。(共同)


---ダボス会議、28日開幕 金融危機対応が焦点に---
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090128AT2M2402U27012009.html

 【ダボス(スイス東部)=藤田剛】世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)が28日、スイス東部のダボスで開幕する。中国の温家宝首相やロシアのプーチン首相が出席するほか、麻生太郎首相も出席の方向で最終調整している。約40人の政府首脳を含め、2500人強の政財界の指導者が世界中から集まり、2月1日までの5日間、世界経済の動向などについて討議する。
 今年のテーマは「危機後の世界の形成」。昨年の会議でも米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題が主要議題のひとつとなったが、その後の世界的な景気後退を受け、今年は金融危機への対応に議論が集中しそうだ。(07:00)

学校法人の政治家枠

読書きそろばんができない大臣が増えた。
アスホールは、書類の全ての漢字にふりがながつけられ、書類は一読する
ようになったと聞いた。
アル中は26ヶ所の言い間違えをしたため、速記訂正願を出されたようだ。
しゃがれ声みたいに意図的に単語を飛ばす場合もあるが、二人には高等技術
のためできそうもないだろう。

アスホールは学習院、アル中は麻布から東大。
社会に出るための読書きそろばんもできない大臣の資質が問われ、教育の質も
問われることになった。学校経営者は必要悪と考えているかもしれない。
私立の学校法人だけだと思ったら、東大でも入学に政治家枠があるようだ。


麻生ウィルス感染?「渦中」を「うずちゅう」と発音w 中川昭一財務大臣


---中川財務相が言い間違え、「歳入」を「歳出」など26か所---
2009年1月31日01時21分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090131-OYT1T00098.htm?from=navr

 中川財務相が28日の衆院本会議で行った2009年度予算案に関する財政演説について、財務省が26か所の速記録訂正を衆院事務局に申し出ていたことが30日、明らかになった。
 同省によると、財務相は「歳入」を「歳出」、「7兆4510億円」を「7兆4050億円」、「9兆1510億円」を「9兆1050億円」と取り違えた。この3か所以外は、「税制抜本改革」を「税制抜本改正」と呼ぶなど、意味が通じないわけではないが演説原稿に即して正確を期すために訂正を求めたという。
 同省は、過去の財政演説でも、原稿の読み間違いによる速記録訂正を行ったことは時々あったという。ただ、民主党側は「2、3か所ならともかく、26か所とは尋常な数字ではない」(渡辺周・衆院議院運営委員会理事)と問題視し、訂正の了承を保留している。


---財務省が大臣の財政演説で26カ所の訂正願---
2009.1.30 21:59
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090130/plc0901302201023-n1.htm

 中川昭一財務相が28日の衆院本会議で行った財政演説について、財務省が26カ所の訂正願を衆院事務局に提出したことが30日、分かった。実際に訂正するには衆院議院運営委員長や自民、民主両党の同委理事の了解が必要となる。しかし民主党は「尋常な数ではないので財務省に説明を求める」(渡辺周同委次席理事)と反発し、了解を先送りする異例の事態になっている。
 財務省の訂正願によると、中川氏は「歳入」とすべきところを「歳出」と述べたほか、数字でも「7兆4510億円」を「7兆4050億円」などと2度間違えていた。「経済を守る」を「経済を図る」と述べ、日本語として成り立たない発言もあった。
 財政演説で中川氏は「渦中(かちゆう)」を「うずちゅう」と誤読したが、幸い(?)漢字で書かれている速記録では読み方まで分からないため、財務省の訂正願には含まれていない。民主党内からは「演説を練習しないで臨む気の緩みの表れ。まさに政権末期だ」(中堅)という批判が噴出している。


---「総理のリーダーシップの下」読み飛ばす 与謝野氏演説---
2009年1月28日18時39分
http://www.asahi.com/politics/update/0128/TKY200901280262.html

 28日の衆院本会議での政府4演説で、与謝野経済財政相が原稿の一部を読み飛ばす場面があった。
 与謝野氏は経済演説の終盤、経済の成長力強化について「麻生総理のリーダーシップの下、政府横断的に大胆な実行を加速し……」と読むところを「麻生総理のリーダーシップの下」を読み飛ばした。他の四つの文章も読まなかった。
 続く参院での演説では読み飛ばしは減ったが、成長力強化の部分は「麻生総理の下、政府横断的に……」。「リーダーシップ」という言葉を読まなかった。
 与謝野氏周辺は「めったにないこと。疲れが出たのかも」と言うが、自民党関係者からは「リーダーシップのない首相の顔をあえて立てたのでは」との皮肉の声もあがった。(山本桐栄)

2009年1月30日金曜日

オバマ政権 党色が明確化

オバマは賃金規制法に署名した。
オバマは雇用調整を実施しているのに、経営者のボーナスが高額すぎると
批判し、労働者の雇用と賃金の確保を重要視する姿勢を明確にした。

米民主党の党略だが、ビッグスリーでは、経営者のボーナスと労働者の
高給がともに批判された。

「中国の為替操作国」と批判しながら、「確証がない」と政府は結論を
春以降に引き伸ばした。次第に、党色があらわになってきた。

日米規制改革要望書に「労働者の雇用」や「賃金の公正化」を明記され
たら、やっぱり日本政府は要望に応えるのだろう。ある意味期待したい。


Obama Blasts Banks Bonuses CBS


Obama Signs First Bill CBS


---無責任の極みとオバマ氏非難、金融機関経営陣のボーナス問題---
2009.01.30 Web posted at: 18:10 JST Updated - CNN
http://www.cnn.co.jp/business/CNN200901300018.html

ワシントン(CNN) オバマ米大統領は29日、公的資金注入を求めた金融機関の経営者らが巨額のボーナスを昨年受け取っていたとする報道を受け、政府の支援を求めた経営者がボーナスを求めるのは「無責任の極み。恥ずべきことだ」と強く非難した。ガイトナー財務長官らと協議後、記者団に述べた。

米紙ニューヨーク・タイムズは29日、金融機関トップらが2008年にもらったボーナスは合計約184億ドル(約1・6兆円)と報道。前年比で44%減ったが、過去6番目の高さだった。

オバマ大統領は「企業が収益を上げ、ボーナスを得る時もあるだろうが、今はその時期ではない」と厳しく批判した。また、金融機関の経営陣に対し自制、慎み、責任感を促した。

一方、オバマ政権高官は、大統領が来週、米国の金融システムを包括的に修正する案の発表を準備しており、この中にはウォールストリート街のボーナス規制策も含まれることを明らかにした。


---米大統領、企業寄り行政を見直し 労働政策の「変革」具体化---
2009年1月30日 17時44分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009013001000726.html

 【ワシントン30日共同】オバマ米大統領は30日、経済危機にあえぐ中流勤労世帯の暮らしを守るための対策委員会(委員長・バイデン副大統領)を政府内に設置、企業寄りだったブッシュ前政権の労働行政の本格的な見直しに着手した。
 オバマ氏は性別や人種などを理由とする賃金差別に対し、従業員が企業を提訴しやすくなる公正賃金法を29日に成立させた。労働者の権利擁護につながる新たな大統領令も準備しており、労働政策の「変革」がさらに具体化する。
 オバマ氏は同日、公的資金による救済の対象となった米金融機関の経営陣らが巨額のボーナスを受け取ったことを厳しく非難。政権から経営側への逆風が当面続きそうだ。
 米主要メディアによると、労働組合がある米企業では現在、経営側が「必ずしも労組に入る必要はない」との内容の表示を社内に出すことができる。しかし、オバマ氏はこれを覆す大統領令を含め、大統領権限に基づく複数の行政命令を近く発令する方針。
 ホワイトハウス当局者は大統領令について「労使関係における(企業寄りの)バランスをある程度(労働者寄りに)戻すことが目的」と米メディアに説明した。


---「娘たちのためにも」オバマ氏法案初署名 賃金差別巡り---
2009年1月30日10時57分
http://www.asahi.com/international/update/0130/TKY200901300064.html

 【ワシントン=小村田義之】オバマ米大統領は29日、賃金差別問題で訴訟を起こしやすくする法案に、大統領として初めて署名した。民主党が多数を占める上下院で可決され、政権発足後の法律制定第1号となった。
 オバマ氏は長女マリアさん(10)、次女サーシャさん(7)の将来に思いをはせたようで、「私の娘たちのためにも署名する」と語った。
 これまで賃金差別訴訟は、差別的な措置が始まってから180日以内にしか訴えられなかったが、今後は最新の賃金支払いから180日間提訴できる。大手タイヤメーカーで賃金差別を受け、最高裁まで争った女性リリー・レッドベターさんにちなみ、「レッドベター法」と呼ばれている。労働組合や女性団体が成立を目指す一方、経営側が訴訟の増加を懸念し、共和党は反対していた。
 この日はレッドベターさんがホワイトハウスに招かれた。初の女性下院議長である民主党のペロシ氏も見守るなか、オバマ氏は「我々の職場に二級市民は存在しない」と強調、「私たちは賃金の格差をなくし、娘たちが同じ権利と機会と自由と夢を、息子たちと同じように持つことを確認する」と語った。


---金融界はけしからん! オバマ大統領、巨額ボーナス「無責任の極み」と激怒---
2009.1.30 10:23
http://sankei.jp.msn.com/world/america/090130/amr0901301025003-n1.htm

 【ワシントン=山本秀也】オバマ米大統領は29日、公的資金による資本注入が進むウォール街の金融機関で、経営陣に昨年支給されたボーナスが推計総額184億ドル(約1兆6600億円)に達したとの報道に触れて、「恥ずべきことだ」と非難した。ホワイトハウスでガイトナー財務長官と会談した席で、記者団に語った。
 オバマ大統領は「支援を求めているウォール街の人々には、抑制や自戒、責任といった感覚を少しはみせてほしい」と指摘。
 国民の税金で経営再建に取り組みながら、世間の相場とかけ離れた高額の賞与を受け取る感覚を「無責任のきわみだ」と酷評した。
 この日の会談は、議会で審議中の景気対策法案に加えて、金融改革などを織り込んだ包括的な経済対策を協議するため行われた。
 大統領は、2004年とほぼ同じ賞与水準を手にする経営感覚に疑問を示した形だが、金融機関をやり玉に挙げる批判方法を「ことを単純化し過ぎだ」(米CNBCテレビ)と懸念する声も出ている。

 オバマ大統領は、当選直後の昨年11月にも、金融機関の経営陣に賞与の辞退を求める考えを表明。
 「人員削減に取り組まざるを得ないのなら、せめて自らも犠牲を払うことを言明すべきだ。それが責任だ」と述べていた。


---オバマ大統領、賃金差別の告発強化「レッドベター法」に署名---
2009.1.30 00:57
http://sankei.jp.msn.com/world/america/090130/amr0901300059001-n1.htm

 【ワシントン=山本秀也】オバマ米大統領は29日、女性らへの賃金差別に対する労働者の告発権限を拡大した法案に署名、同法は成立した。新法は勤務先だった大企業と裁判闘争を演じた女性労働者を記念して、「リリー・レッドベター公正賃金法」と呼ばれ、大統領が就任前から成立に意欲をみせていた。
 この法律は、賃金差別をめぐる企業告発の期間(180日以内)について、労働者に有利な解釈を明記した内容だ。男性従業員との賃金額で「差別待遇を受けた」として、大手タイヤメーカーを相手取り賠償金を求めた元従業員、レッドベター氏が連邦最高裁で敗訴したことを受け、2007年から民主党が立法化を進めていた。
 法案はブッシュ前政権時代、与党の共和党が強く反対して廃案となったものの、昨年の大統領選で労働者の権利をめぐる民主、共和両党の争点に浮上した。オバマ政権への移行を控え、再上程された法案は、今月新たに発足した上下両院で賛成多数により可決。ホワイトハウスに送られていた。
 オバマ大統領は、28日に大企業の経営者と懇談した中でも、企業側の雇用調整にクギをさすなど、労働者の雇用と賃金の確保を重要視する姿勢を明確に打ち出している。


---『ウォール街 無責任』 オバマ大統領巨額賞与を批判---
2009年1月30日 夕刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009013002000239.html

 【ワシントン=古川雅和】オバマ米大統領は二十九日、金融危機を招いたウォール街の金融機関が巨額のボーナスを昨年支払っていたことについて「無責任の極み。恥ずべきことだ」と、強い怒りをみせた。ホワイトハウスで記者団に語った。
 ウォール街に本店を構える金融機関の昨年のボーナス総額をニューヨーク州が二十八日に発表。金融危機による業績悪化で二〇〇七年より四割以上減ったが、それでも百八十四億ドル(約一兆六千六百億円)に達した。一人当たりの平均金額は約十一万二千ドルになる。
 オバマ大統領は記者団に向け、金融危機の原因をつくり公的資金で救済されたウォール街の金融機関が、景気拡大期の〇四年と同規模のボーナスを出していたことを厳しく批判。国民が景気後退に苦しみ、政府や議会が景気対策を検討していることを強調し「(金融機関は)節度や自制心、責任感を見せるべきだ」と語気を強めた。


---Obama Signs Equal-Pay Legislation---
By SHERYL GAY STOLBERG
Published: January 29, 2009
http://www.nytimes.com/2009/01/30/us/politics/30ledbetter-web.html?em

WASHINGTON — President Obama signed his first bill into law on Thursday, approving equal-pay legislation that he said would “send a clear message that making our economy work means making sure it works for everybody.”

Mr. Obama was surrounded by a group of beaming lawmakers, most but not all of them Democrats, in the East Room of the White House as he affixed his signature to the Lilly Ledbetter Fair Pay Act, a law named for an Alabama woman who at the end of a 19-year career as a supervisor in a tire factory complained that she had been paid less than men.

After a Supreme Court ruling against her, Congress approved the legislation that expands workers’ rights to sue in this kind of case, relaxing the statute of limitations.

“It is fitting that with the very first bill I sign — the Lilly Ledbetter Fair Pay Act — we are upholding one of this nation’s first principles: that we are all created equal and each deserve a chance to pursue our own version of happiness,” the president said.

He said was signing the bill not only in honor of Ms. Ledbetter — who stood behind him, shaking her head and clasping her hands in seeming disbelief — but in honor of his own grandmother, “who worked in a bank all her life, and even after she hit that glass ceiling, kept getting up again” and for his daughters, “because I want them to grow up in a nation that values their contributions, where there are no limits to their dreams.”

The ceremony, and a reception afterward in the State Dining Room of the White House, had a celebratory feel. The East Room was packed with advocates for civil rights and workers rights; the legislators, who included House and Senate leaders and two moderate Republicans — Senators Susan Collins and Olympia Snowe, both of Maine — shook Mr. Obama’s hand effusively (some, including House Speaker Nancy Pelosi, received presidential pecks on the cheek) as he took the stage. They looked over his shoulder, practically glowing, as Mr. Obama signed his name to the bill, using one pen for each letter.

“I’ve been practicing signing my name very slowly,” Mr. Obama said wryly, looking at a bank of pens before him. He handed the first pen to the bill’s chief sponsor, Senator Barbara Mikulski, Democrat of Maryland, and the last to Ms. Ledbetter.

The ceremony also marked First Lady Michelle Obama’s policy debut; she spoke afterward in a reception in the State Dining Room, where she called Ms. Ledbetter “one of my favorite people.”

Mr. Obama told Ms. Ledbetter’s story over and over again during his campaign for the White House; she spoke frequently as an advocate for him during his campaign, and made an appearance at the Democratic National Convention in Denver.

Now 70, Ms. Ledbetter discovered when she was nearing retirement that her male colleagues were earning much more than she was. A jury found her employer, the Goodyear Tire and Rubber Company plant in Gadsden, Ala., guilty of pay discrimination. But in a 5-4 decision, the Supreme Court threw out the case, ruling that she should have filed her suit within 180 days of the date that Goodyear first paid her less than her peers.

Congress tried to pass a law that would have effectively overturned the decision while President George W. Bush was still in office, but the White House opposed the bill; opponents contended it would encourage lawsuits and argued that employees could delay filing their claims in the hope of reaping bigger rewards. But the new Congress passed the bill, which restarts the six-month clock every time the worker receives a paycheck .

Ms. Ledbetter will not see any money as a result of the legislation Mr. Obama signed into law. But what she has gotten, aside from celebrity, is personal satisfaction, as she said in the State Dining Room after the signing ceremony.

“Goodyear will never have to pay me what it cheated me out of,” she said. “In fact, I will never see a cent. But with the president’s signature today I have an even richer reward.”


---What Red Ink? Wall Street Paid Hefty Bonuses---
By BEN WHITE
Published: January 28, 2009
http://www.nytimes.com/2009/01/29/business/29bonus.html?bl&ex=1233464400&en=5bd41c19514c4845&ei=5087%0A

By almost any measure, 2008 was a complete disaster for Wall Street — except, that is, when the bonuses arrived.

Despite crippling losses, multibillion-dollar bailouts and the passing of some of the most prominent names in the business, employees at financial companies in New York, the now-diminished world capital of capital, collected an estimated $18.4 billion in bonuses for the year.

That was the sixth-largest haul on record, according to a report released Wednesday by the New York State comptroller.

While the payouts paled next to the riches of recent years, Wall Street workers still took home about as much as they did in 2004, when the Dow Jones industrial average was flying above 10,000, on its way to a record high.

Some bankers took home millions last year even as their employers lost billions.

The comptroller’s estimate, a closely watched guidepost of the annual December-January bonus season, is based largely on personal income tax collections. It excludes stock option awards that could push the figures even higher.

The state comptroller, Thomas P. DiNapoli, said it was unclear if banks had used taxpayer money for the bonuses, a possibility that strikes corporate governance experts, and indeed many ordinary Americans, as outrageous. He urged the Obama administration to examine the issue closely.

“The issue of transparency is a significant one, and there needs to be an accounting about whether there was any taxpayer money used to pay bonuses or to pay for corporate jets or dividends or anything else,” Mr. DiNapoli said in an interview.

Granted, New York’s bankers and brokers are far poorer than they were in 2006, when record deals, and the record profits they generated, ushered in an era of Wall Street hyperwealth. All told, bonuses fell 44 percent last year, from $32.9 billion in 2007, the largest decline in dollar terms on record.

But the size of that downturn partly reflected the lofty heights to which bonuses had soared during the bull market. At many banks, those payouts were based on profits that turned out to be ephemeral. Throughout the financial industry, years of earnings have vanished in the flames of the credit crisis.

According to Mr. DiNapoli, the brokerage units of New York financial companies lost more than $35 billion in 2008, triple their losses in 2007. The pain is unlikely to end there, and Wall Street is betting that the Obama administration will move swiftly to buy some of banks’ troubled assets to encourage reluctant banks to make loans.

Many corporate governance experts, investors and lawmakers question why financial companies that have accepted taxpayer money paid any bonuses at all. Financial industry executives argue that they need to pay their best workers well in order to keep them, but with many banks cutting jobs, job options are dwindling, even for stars.

Lucian A. Bebchuk, a professor at Harvard Law School and expert on executive compensation, called the 2008 bonus figure “disconcerting.” Bonuses, he said, are meant to reward good performance and retain employees. But Wall Street disbursed billions despite staggering losses and a shrinking job market.

“This was neither the sixth-best year in terms of aggregate profits, nor was it the sixth-most-difficult year in terms of retaining employees,” Professor Bebchuk said.

Echoing Mr. DiNapoli, Professor Bebchuk said he was concerned that banks might be using taxpayer money to subsidize bonuses or dividends to stockholders. “What the government has been trying to do is shore up capital, and any diversion of capital out of banks, whether in the form of dividends or large payments to employees, really undermines what we are trying to do,” he said.

Jesse M. Brill, a lawyer and expert on executive compensation, said government bailout programs like the Troubled Asset Relief Program, or TARP, should be made more transparent.

“We are all flying in the dark,” Mr. Brill said. “Companies can simply say they are trying to do their best to comply with compensation limits without providing any of the details that the public is entitled to.”

Bonuses paid by one troubled Wall Street firm, Merrill Lynch, have come under particular scrutiny during the last week.

Andrew M. Cuomo, the New York attorney general, has issued subpoenas to John A. Thain, Merrill’s former chief executive, and to an executive at Bank of America, which recently acquired Merrill, asking for information about Merrill’s decision to pay $4 billion to $5 billion in bonuses despite new, gaping losses that forced Bank of America to seek a second financial lifeline from Washington.

A Treasury department official said that in the coming weeks, the department would take action to further ensure taxpayer money is not used to pay bonuses.

Even though Wall Street spent billions on bonuses, New York firms squeezed rank-and-file executives harder than many companies in other fields. Outside the financial industry, many corporate executives received fatter bonuses in 2008, even as the economy lost 2.6 million jobs. According to data from Equilar, a compensation research firm, the average performance-based bonuses for top executives, other than the chief executive, at 132 companies with revenues of more than $1 billion increased by 14 percent, to $265,594, in the 2008 fiscal year.

For New York State and New York City, however, the leaner times on Wall Street will hurt, Mr. DiNapoli said.

Mr. DiNapoli said the average Wall Street bonus declined 36.7 percent, to $112,000. That is smaller than the overall 44 percent decline because the money was spread among a smaller pool following thousands of job losses.

The comptroller said the reduction in bonuses would cost New York State nearly $1 billion in income tax revenue and cost New York City $275 million.

Paul J. Sullivan contributed reporting.


---中国の為替操作問題、オバマ政権の判断は春以降 米政府首脳---
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090130AT2M3000N30012009.html

 【ワシントン=大隅隆】バイデン米副大統領は29日、中国政府が自国通貨を操作しているかについて「政権としてはまだ判断してない」と語り、中国に対する為替政策を慎重に扱う意向をにじませた。CNBCテレビのインタビューに答えた。
 ガイトナー財務長官が就任直前に「オバマ大統領は中国が自国通貨を操作していると信じている」と語ったことに関し、同副大統領は「誰もが驚いたのは操作という言葉。だが通貨操作があったという判断は政権内にはない」と強調した。
 ギブズ大統領報道官も26日、「オバマ大統領の選挙期間中の発言を繰り返しただけ。為替政策に関する定期報告書を財務省が今春にまとめる」と指摘。オバマ政権の判断は今春以降との考えを示している。(11:36)


---アフガン:上海協力機構主導で国際会議を 露大統領が提唱---
毎日新聞 2009年1月24日 20時13分
http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20090125k0000m030063000c.html

 【モスクワ大木俊治】タス通信によると、ロシアのメドベージェフ大統領は23日、ロシア、中国と中央アジア4カ国で構成する上海協力機構の主導でアフガニスタン問題に関する国際会議を開くよう提唱した。訪問先のタシケントでウズベキスタンのカリモフ大統領と会談後、記者団に語った。
 またメドベージェフ大統領は、アフガン問題で米国と協力する意向を表明しながらも「協力は対等でなければならない」とクギを刺した。アフガンへの関与を強める姿勢のオバマ米大統領を意識し、地域での影響力確保を図る狙いとみられる。
 アフガンには米軍など北大西洋条約機構(NATO)が指揮する国際治安支援部隊(ISAF)が駐留しているが、ロイター通信によると、アフガン政府は最近ロシアにも軍事技術面での支援を要請した。一方、米中東軍のペトレアス司令官は20日、北回りの新たな補給路確保でロシアや中央アジア諸国と合意したと語ったが、ロシアは否定しており、アフガンや周辺地域をめぐる米露間のけん制が始まっている。


---人民元相場操作の指摘に反論 中国人民銀副総裁---
2009年1月24日 18時20分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009012401000543.html

 【北京24日共同】24日の新華社電によると、中国人民銀行(中央銀行)の蘇寧副総裁は、米次期財務長官へ指名されたガイトナー氏が中国は人民元の為替レートを操作していると指摘したことに対し、「事実に合ってないばかりか、金融危機の原因分析を誤った方向に導く」と反論した。
 ガイトナー氏は上院財政委員会に提出した書簡で、中国による「人民元の為替レートの(不正な)操作」に言及、元の切り上げが必要との認識を示した。蘇副総裁は「言い訳をすることで保護主義を助長すべきではない」と指摘した。
 ガイトナー発言は、中国国内でオバマ政権の対中経済姿勢の「第一声」と受け止められ、反発が出ている。中国は日本を抜き世界最大の米国債保有主で、元切り上げは中国が保有している米国債の元ベースでの価値低下を意味するためだ。米新政権の人民元切り上げ要求が強まった場合には、中国側で米国債売却論が高まる可能性がある。


---「中国は為替操作国」オバマ大統領…ガイトナー氏書簡で---
2009年1月23日14時35分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090123-OYT1T00549.htm

 【ワシントン=岡田章裕】ガイトナー米次期財務長官は22日、「オバマ大統領は中国が為替を操作していると確信している」との見解を米上院財政委員会への書簡の中で明らかにした。
 中国との対話路線を貫いたブッシュ政権と異なり、オバマ政権が人民元への切り上げの圧力を強める可能性が出てきた。
 書簡では「中国の為替政策を変更させるために、大統領自らが、あらゆる外交手段を積極的に活用することを誓った」としている。
 ただ、「強いドルがアメリカの国益だ」との見解も示し、中国人民元以外の通貨一般では、ドル高政策を取る方針だ。
 米財務省が例年、春と秋にまとめる為替政策報告書で中国を「為替操作国」と認定するかどうかが焦点になる。
 認定すれば政府間交渉に入る。対中貿易は年々増加しており、過小評価された人民元のために米国からの輸出が妨げられ、雇用が流出しているとの不満が議会内に高まっている。


---中国で米国債売却論 値下がりリスクを嫌気---
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090122AT2M2103A21012009.html

 中国で「外貨準備で保有する米国債の残高を減らすべきだ」との議論が活発になっている。米国が金融危機対応で国債を大量に増発し、今後の価格下落が見込まれるためだ。米国債売却論の背景には「金融危機の責任の一端は中国にある」という米国内の世論への反発もあり、オバマ政権下の米中関係に微妙な影を落とす可能性もある。
 中国社会科学院世界経済政治研究所の余永定所長は今月初めに中国紙上で、米国債が供給過剰になるリスクに触れ「米国債をある程度売り、ユーロや円の資産を増やすべきだ」と指摘した。関係者によると、政府内で「外貨準備の運用を巡る議論」が再燃するきっかけになったという。(北京=高橋哲史) (08:49)

2009年1月29日木曜日

関西地銀赤字

関西の地銀の赤字が相次ぐ。
金融危機の直撃を受けて、3月期連結決算で最終赤字に転落する見通しの
地方銀行が関西で相次いでいる。

・滋賀銀行 105億円の赤字
・南都銀行 129億円の赤字
・みなと銀 58億円の赤字
・池田銀行 200億円程度の赤字

米金融大手6社のうち5社が赤字

世界の金融機関の損失試算
・IMFは金融損失200兆円
・GSは2兆ドル超(約180兆円)

日本は派遣切り、正社員の人員整理が始まったようだが、米国では企業や
事業の身売りが多くなり、業種の存続さえ危ういようだ。
日本の主輸出製造製品に採用されている半導体も長納期、受注生産となり
このままでは世界的に部品が入手できない状態に陥る可能性がある。
資金はあっても製品が販売できないために、利子さえ払えず倒産する
企業が増加しそうだ。


---金融損失200兆円に拡大 IMF予測---
2009.1.28 23:28
http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090128/fnc0901282333018-n1.htm

 国際通貨基金(IMF)は28日、世界経済見通しと金融安定報告を改定、サブプライム住宅ローン問題の影響による世界の金融機関の損失が計2兆2000億ドル(約200兆円)に達し、昨年10月時点の推計の約1・6倍に拡大すると予測した。2009年の世界の実質成長率も前年比0・5%増とほぼゼロ成長に低下、戦後最悪の水準に落ち込むとの見通しを示した。
 IMFは「金融市場の逼迫(ひつぱく)が実体経済の悪化を引き起こしている」とし「経済状況の悪化で新たに大幅な損失が発生している」と分析した。
 09年の成長見通しは米国が1・6%減(昨年11月時点で0・7%減)と1982年以降で最悪と予想。日本は2・6%減(同0・2%減)で、日本の内閣府の統計がある1956年度以降で最低水準に落ち込む。先進国全体は2・0%減(同0・3%減)と戦後初のマイナス成長となる。(共同)



---米金融6社業績悪化、5社は赤字 不良債権処理額が倍増---
2009年1月28日22時47分
http://www.asahi.com/business/update/0128/TKY200901280312.html

 【ニューヨーク=丸石伸一】ウェルズ・ファーゴが28日、08年10~12月期決算を発表し、米金融大手6社の同年第4四半期決算が出そろった。07年夏以降も黒字を維持してきたウェルズ社が純損失に転落し、6社のうち5社が赤字、唯一黒字のJPモルガン・チェースも大幅減益だった。景気後退で不良債権処理額が軒並み倍増し、各社とも抜本処理を迫られている。
 ウェルズ・ファーゴは純損益が25億4700万ドル(約2270億円)の赤字となり、前年同期の13億6100万ドル(約1210億円)の黒字から大幅に悪化した。同社は昨年末、同業大手ワコビアを買収して業容を拡大。これまで大手の中ではサブプライム関連の投資が少なく、損失額も比較的小さかったが、今回はワコビア買収も重荷となり、個人向け融資の貸し倒れ引当金の増加などが響いた。
 大手各社の損失は、貸し倒れ引当金など不良債権の増加にともなう処理が中心になり、実体経済の悪化を反映したものになってきた。サブプライム関連の証券化商品の評価損のような一時的なショックに基づくものよりも根が深く、景気後退が長引けば損失拡大が続く可能性が高い。
 銀行業務が中心で資産規模の大きいシティグループとバンク・オブ・アメリカ、JPモルガンの3大銀行の08年10~12月期の損失は合計で前年同期に比べて約2割増えた。サブプライム関連などの評価損は減ったものの、貸し倒れ引当金の積み増しなどの不良債権処理額が2倍以上に増えたのが原因だった。
 米金融大手ゴールドマン・サックスが今月発表した最新の試算では、世界の金融機関が抱える損失は計2兆ドル超(約180兆円)にのぼる。昨年3月時点の予想1兆2千億ドル(約110兆円)を大幅に修正し、金融機関の財務悪化が予想以上に進んでいることを裏付けた。景気の急回復は当面見込めず、損失増が続くのは避けられそうもない。


---関西の地銀、赤字転落相次ぐ---
2009.1.28 20:19
http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090128/fnc0901282020015-n1.htm

 世界的な金融危機の直撃を受けて、平成21年3月期連結決算で最終赤字に転落する見通しの地方銀行が関西で相次いでいる。28日は滋賀銀行が昭和8年の設立以来初の赤字となる見通しを発表し、赤字となる見通しの関西の地銀は4行となった。各行とも健全性を示す自己資本比率にはまだ余裕があり、改正金融機能強化法に基づく公的資金を申請する動きはないが、経営基盤の立て直しが求められる事態になっている。(佐藤安律)
 滋賀銀は昨年9月に経営破綻した米証券大手のリーマン・ブラザーズの社債を現在も保有。計上する評価損は20年9月中間期での28億円から、21年3月期には32億円に拡大する。そのほかにも債券や株式の評価損が膨らみ、有価証券全体の評価損は182億円の計上を余儀なくされ、3月期の連結最終損益は従来予想の30億円の黒字から105億円の赤字に転落する見通しとなった。
 滋賀銀には香港支店があり、国際業務を行っているため自己資本比率は8%が必要。3月末現在で9%台後半から10%台前半を維持できる見通しという。
 このほかすでに、3月期の連結最終赤字の見通しを発表しているのは南都銀行とみなと銀行。赤字額は南都銀が129億円、みなと銀が58億円。池田銀行は未発表だが、優先株による第三者割当増資で資本増強の方針を先に発表しており、2期連続で大幅赤字となる模様だ。
 滋賀銀、南都銀、池田銀は貸し出しなどの本業は堅調だが、有価証券の運用で損失を出している。これに対し、みなと銀は不動産業を中心とする取引先の倒産増加による不良債権処理費用の増加の影響が大きく、違いがある。
 南都銀、池田銀、みなと銀は国内のみの営業で、自己資本比率は4%が必要。3月末現在で、南都銀と池田銀は10%台、みなと銀は9%台を確保する見通しだ。


---池田銀、200~250億円増資へ 3月期200億円赤字通し---
2009.1.23 14:13
http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090123/fnc0901231416007-n1.htm

 世界的な金融市場の混乱で、池田銀行の保有有価証券の評価損計上が膨らみ、同行の平成21年3月期の連結最終損益が、従来予想の30億円の黒字から200億円程度の赤字となる見通しであることが23日、わかった。これを受け、同行は同日、阪急阪神ホールディングスや三菱東京UFJ銀行など複数社を引受先に200~250億円の優先株を発行し、資本増強する方針を明らかにした。
 池田銀行の通期の最終赤字は2期連続。同行の昨年9月末現在の連結自己資本比率は9・21%。21年3月期は最終赤字になるが、資本増強で同比率は10~11%になる見込み。銀行が国内で営業するのに必要な4%や、地方銀行が最低目標とすることが多い8%を大きく上回る。新しい金融機能強化法に基づく公的資金の注入は申請しない方針。

2009年1月28日水曜日

ファルド邸 差し押さえ逃れ

ファルド邸が差し押さえ逃れを図ったようだ。
リーマン・ブラザーズのファルドCEOが、1300万ドル(約11億6000万円)超で
購入したフロリダ州の高級保養地の豪邸を、10-100ドル(約890-8900円)と
いうただ同然の価格で妻に譲渡していたことが分かった。

ファルドもセインもずる賢い。
金歯入れて、金の指輪をはめ、金をちりばめた服を着た成金の成れの果ての
ようだ。


---10-100ドルで豪邸譲渡 破綻のリーマン元CEOが妻に---
2009年1月27日 11時53分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009012701000166.html

 【ニューヨーク26日共同】昨年9月に経営破綻した米証券大手リーマン・ブラザーズのファルド元最高経営責任者(CEO)が、5年前に1300万ドル(約11億6000万円)超で購入したフロリダ州の高級保養地の豪邸を昨年、10-100ドル(約890-8900円)というただ同然の価格で妻に譲渡していたことが26日分かった。米メディアが伝えた。
 格安で譲渡した意図は明らかでないが、ファルド氏はリーマン破綻で損失を被った株主らから巨額の賠償を求める訴訟を起こされており、差し押さえを逃れて資産を保護する狙いがあるのではないかと米メディアは伝えている。
 具体的な譲渡額は不明。ニューヨーク・タイムズ紙は10ドルとしたが、取引で支払った税金の額などをベースに100ドルとするメディアもある。
 ファルド氏は2004年、フロリダ州パームビーチにある約1万3000平方メートルの豪邸を購入した。


---リーマン前CEO、豪邸を1万円以下で妻に譲渡 差し押さえ逃れか---
2009.1.27 11:44
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090127/biz0901271147010-n1.htm

 昨年9月に経営破綻(はたん)した米証券大手リーマン・ブラザーズのファルド前最高経営責任者(CEO)が、5年前に1300万ドル(約11億6000万円)超で購入したフロリダ州の高級保養地の豪邸を昨年、10~100ドル(約900~9000円)という格安価格で妻に譲渡していたことが26日、分かった。米メディアが伝えた。
 格安で譲渡した意図は明らかでないが、ファルド氏はリーマン破綻で損失を被った株主らから巨額の賠償を求める訴訟を起こされており、差し押さえを逃れて資産を保護する狙いがあるのではないかと米メディアは伝えている。
 具体的な譲渡額は不明。ニューヨーク・タイムズ紙は10ドルとしたが、取引で支払った税金の額などをベースに100ドルとするメディアもある。
 ファルド氏は2004年、フロリダ州パームビーチに約1万3000平方メートルの豪邸を購入した。(共同)


---Deal of the Decade? Lehman's Fuld Gave $13.75 Mil Estate to Wife for $100---
Transfer Could Be Effort to Avoid Potential Creditors, Attorneys Say
By MEGAN CHUCHMACH
January 26, 2009
http://abcnews.go.com/Blotter/story?id=6735513&page=1


This home in Jupiter Island, Florida was purchased by former Lehman Brothers CEO and Chairman Richard Fuld and his wife Kathleen in 2004 for $13.75 million. In November, less than two months after Lehman Brothers collapsed intro bankruptcy, Fuld transferred the home to his wife for $100. Collapse
(ABC News)


Less than two months after the investment banking firm he led collapsed in the largest bankruptcy in U.S. history, Lehman Brothers CEO and Chairman Richard Fuld transferred his $13.75 million ocean front estate in Jupiter Island, FL to his wife for just one Benjamin Franklin bill, Florida real estate records reveal.

The move is garnering attention for what might be Fuld's attempt to avoid creditors as he could face civil lawsuits in the future.

It sounds like Fuld is "trying to save as many assets as he can," said Palm Beach attorney Jeffrey Zane, who does not represent Fuld. The move, he added, is basically an interfamily transfer that was necessary because Fuld, as a non-resident of Florida, was not safeguarded by the state's homestead property laws that can protect a family home from creditors.

After failing to find a financial savior to save it from collapse - which was a partial consequence of its heavy involvement in sub-prime mortgage investments - Lehman Brothers filed for bankruptcy Sept. 15, 2008.

he transfer of the lavish home to Kathleen Fuld took place Nov. 10, 2008, according to public records, which came just over one month after Fuld faced scrutiny during a heated Congressional hearing.

The couple purchased the more than three-acre estate in 2004. Cityfile.com first reported the recent transfer from Fuld to his wife.

Florida attorney Eric S. Ruff told the New York Times that Fuld's transfer is "the oldest trick in the books." "It's common when you hear the feet of your creditor approaching to divest yourself," Ruff said.

Ruff also told the Times that the sale could be deemed fraudulent if Fuld's wife is determined to not have paid enough for the property, potentially paving the way for creditors who come wanting to collect.

Zane said that should any question arise surrounding the legitimacy of the transfer, the Fulds could argue the move was part of their overall estate planning and that the transfer date coincidentally "happened at the same time that [Fuld] was under so much glare or publicity."

Fuld did not immediately return a message left for him by ABCNews.com.

Fuld Testified Before Congress

Many at Lehman blame Fuld for dallying while his investment bank went bust, taking risks with other people's money while he cleared over $40 million in salary and stock in the last year alone.

Fuld became the poster boy for Wall St. greed last October, when he stood before Congress and defended the $484 million he received in salary, bonuses and stock options since 2000. Fuld said that given the worthless stock of Lehman Brothers after its collapse, his actual holdings were closer to $350 million.

Fuld, who also owns a mansion in Greenwich, CT, a ski chalet in Idaho and a Manhattan apartment, told the Congressional panel that he took "full responsibility" for the bankruptcy of Lehman Brothers and "felt horrible" about it. But he also said he has yet to understand why the federal government helped to bail out the AIG insurance company and other investment banking firms, but did not do so a few days earlier to save Lehman Brothers.

"Until the day they put me in the ground, I will wonder," Fuld told the Congressional panel, seeming to seethe with anger.

"This is a pain that will stay with me the rest of my life."

In his opening remarks, Waxman lambasted both Fuld and Lehman.

Internal documents obtained by the committee, Waxman said, "portray a company in which there was no accountability for failure."

Waxman cited an e-mail exchange among top Lehman executives. After someone sent an e-mail suggesting that Lehman's top management give up their bonuses, both Fuld and George H. Walker, a member of Lehman's executive committee and a cousin of President Bush, sent e-mails disagreeing with the suggestion.

Walker, according to Waxman, replied by writing, "Sorry team. I'm not sure what's in the water at 605 Third Avenue today. … I'm embarrassed and I apologize."

Waxman said that Fuld "mocked" the suggestion by adding, "Don't worry - they are only people who think about their own pockets."

Waxman also cited a request submitted to Lehman's compensation committee four days before the firm filed for bankruptcy. The request, he said, recommended that the board give three departing executives over $20 million in "special payments."

"In other words, even as Mr. Fuld was pleading with Secretary Paulson for a federal rescue, Lehman continued to squander millions on executive compensation," Waxman said.

Richard Fuld Testifies Before Congress

Despite warnings that "liquidity can disappear quite fast," Fuld "depleted Lehman's capital reserves by over $10 billion through year-end bonuses, stock buybacks, and dividend payments," Waxman said.

Others at the hearing voiced their own concerns about compensation at Lehman.

Nell Minow, the editor of the research firm, The Corporate Library, highlighted Fuld's compensation, which exceeded $70 million last year.

"I think it is fair to say by any standard of measurement that this pay plan is as uncorrelated to performance as it is possible to be," she said.

Minow also found fault with Lehman's corporate board. The Corporate Library grades the performance of corporate boards and last month, Minow said, the firm downgraded Lehman's board to an "F."

"In this case, the board was too old, had served too long, was too out of touch with massive changes in the industry, had too little of their own net worth at risk, and was too compromised for rigorous independent oversight," she said.

Prior to Fuld's testimony, Minow and several other experts testified before the committee on Lehman's bankruptcy and today's financial turmoil.

Dr. Luigi Zingales, a professor of finance at the University of Chicago, said that Lehman's demise was a result of its aggressive use of leverage, or debt to finance investments, "in the context of a major financial crisis."

It made Lehman especially vulnerable to insolvency, Zingales said.

"Lehman did not find itself in that situation by accident; it was the unlucky draw of a consciously-made gamble," he said.

Robert Wescott, the president of the economic analysis and public policy research firm Keybridge Research LLC, said that the root of the financial crisis, overall lay in "easy credit."

Variable rate mortgages with low initial interest rates "gave many families an inflated sense of their capacity to afford housing," Wescott said. As a result, he said, housing prices began rising as high as 30 percent per year and "a housing frenzy developed."

Near the end of the Congressional hearing, after some two hours of questioning, Fuld stressed his personal feelings about Lehman's bankruptcy.

"My employees, my shareholders, creditors, clients have taken a huge amount of pain and, again, not that everybody on this committee cares about this, but I wake up every single night thinking what I could I have done differently," he said.

"I have searched myself every single night, and I come back to at the time ... I made those decisions, I made those decisions with the information that I had ... I can look right at you and say this is a pain that will stay with me for the rest of my life, regardless of what comes out of this committee."

Waxman closed the hearing noting that he was dissatisfied with Fuld's testimony.

"You took responsibility for the decisions you made in retrospect, you think you should have done some things different," he said, "but you don't seem to acknowledge that you did anything wrong."

2009年1月27日火曜日

シティ 45億円のビジネスジェット購入か

シティがビジネスジェット購入を迫られている。
シティグループが5000万ドル(約45億円)で専用ジェット機を購入しようと
計画していると報じた。
シティは2年前に専用機を発注。
キャンセルすると数百万ドルを支払わなければならないという。

シティは経営再建のため450億ドル(約4兆円)の公的資金による資本注入が
認められており、2年前の発注といえども、ファルコン7Xを購入すると
公聴会で自動車大手3社の支援が難航した状況を再度招くことになる。
キャンセル料で負債は増えるが、メンテ費、維持費等を考慮すると即断でき
るだろう。


Dassault Falcon 7X extreme trials

---米シティが45億円の専用ジェット購入計画---
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090127AT2M2702027012009.html

 ロイター通信は26日、米銀大手シティグループが5000万ドル(約45億円)で専用ジェット機を購入しようと計画していると報じた。シティは経営再建のため450億ドル(約4兆円)の公的資金による資本注入が認められているだけに、批判が強まりそうだ。
 ロイターによると、シティは2年前に専用機を発注。キャンセルすると数百万ドルを支払わなければならないという。
 専用機をめぐっては、公的資金による支援を求めた米ビッグスリー(自動車大手3社)の首脳が昨年11月、公聴会出席のため高価な専用ジェット機でワシントン入りして批判され、支援決定が難航する事態となった。3社は保有機の一部を売却するなどした。
 民主党のカール・レビン上院議員は、ビッグスリーが専用機売却を要求されたのに「シティの専用機購入を許可するのはばかげた二重基準だ」と語り、オバマ政権に購入をやめさせるよう求めた。(ニューヨーク=共同)(14:17)


---Report: Rescued Citigroup Shelling Out $50M for Corporate Jet---
Monday, January 26, 2009 | FoxNews.com
http://www.foxnews.com/story/0,2933,483007,00.html

Beleaguered Citigroup is upgrading its mile-high club with a brand-new $50 million corporate jet -- only this time, it's the taxpayers who are getting screwed.

Even though the bank's stock is as cheap as a gallon of gas and it's burning through a $45 billion taxpayer-funded rescue, the Citigroup's execs pushed through the purchase of a new Dassault Falcon 7X, according to a source familiar with the deal.

The French-made luxury jet seats up to 12 in a plush interior with leather seats, sofas and a customizable entertainment center, according to Dassault's sales literature. It can cruise 5,950 miles before refueling and has a top speed of 559 mph.

There are just nine of these top-of-the-line models in the United States, with Dassault's European factory churning out three to four 7Xs a month.

Citigroup decided to get its new wings two years ago, when the financial-services giant was flush with cash, but it still intends to take possession of the jet this year despite its current woes, the source said.

加州新幹線は儚い夢

加州が破産間近のようだ。
シュワルツェネッガー知事は年頭施政方針演説で、
「このままでは2月中にも、わが州は支払い不能に陥る」と、非常事態を
宣言した。

失業率は9.3%ととても高い。
破産したバレーホ市では泥棒が入っても警官が来ないようだ。
さらに、5万9000人の人員削減をするようだ。

人員削減を発表した企業。
・キャタピラー
・ゼネラル・モーターズ
・ファイザー
・サーキット・シティ
・アルコア
・ゼネラル・エレクトリック
・ボーイング

JR東海葛西敬之はカリフォルニア州が計画している州縦断高速鉄道に新幹線
を強く売り込んだ。
同州では鉄道の総工費320億ドル(約2兆8000億円)のうち100億ドルを州債
発行で賄う住民提案が成立。

米政府が加州に別途、予算を与えてくれれば可能と思うが、州債発行したって
州が破産すれば紙切れになるだけだ。加州新幹線は儚い夢か。


---人員削減:米、5万9000人削減発表 ファイザーなど6社、同日に---
毎日新聞 2009年1月27日 東京夕刊
http://mainichi.jp/select/biz/news/20090127dde001020003000c.html

 【ワシントン斉藤信宏】急速な景気悪化に陥っている米国で26日、大手企業による人員削減が相次いで発表された。削減数は米産業機械大手キャタピラーの2万人を筆頭にこの日の発表分だけで計5万9000人に達し、年明けからの4週間弱の累計は既に13万人を超えた。オバマ米大統領は「今後2年間での400万人の雇用創出」を掲げて大型景気対策の実施を急いでいるが、足元の景気悪化で逆に大量の職が失われる事態に直面しており、早くも目標達成を危ぶむ声が上がっている。
 26日に新たに人員削減を発表したのは計6社。キャタピラーが早期退職勧奨も含めて全世界で従業員を減らすほか、自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)は北米工場で従業員を削減。医薬品大手ファイザーも同業大手ワイスの買収に伴い大規模な人員削減に踏み切る。いずれも08年秋以降の収益悪化が人員削減の主因で、人件費の切り詰めで業績改善を目指す。
 また、年明け以降、家電小売り大手のサーキット・シティが会社清算を決めたことで約3万4000人の解雇が決まっているほか、▽アルミ大手アルコアの1万5200人▽ゼネラル・エレクトリック(GE)の1万1000人▽航空機大手ボーイングの4500人--など、大規模削減の発表が相次いでいる。
 米国の就業者数は08年、約259万人減少し、第二次世界大戦後では最悪の雇用情勢となった。09年に入っても、人員削減の動きに歯止めがかかっておらず、昨年12月に7・2%まで上昇した失業率は「半年以内に2ケタに迫る」(米調査会社ムーディーズ・エコノミー)との見方も出ている。


---世界各国の大手企業、景気後退で大幅人員削減へ---
2009.01.27 Web posted at: 11:53 JST Updated - CNN
http://www.cnn.co.jp/business/CNN200901270004.html

(CNN) 深刻な景気後退のなか、世界各国では26日、大手企業が相次いで大規模な人員削減を発表した。

米建設機械最大手のキャタピラーは、2008年第4四半期に発表した1万5000人の削減に加え、新たに5000人を減らすことを明らかにした。合計2万人の削減は全従業員の18%に相当する。

医薬品大手ファイザーは昨年末現在で従業員8万1900人を雇用しているが、10%を削減し、工場5カ所も閉鎖。ホームセンター大手ホーム・デポは7000人、電気通信会社スプリント・ネクステルは3月末までに8000人を、それぞれ削減する。先週にはコンピューターソフト最大手マイクロソフトが、今後1年半で5000人を減らすと発表した。

欧州ではオランダの金融大手INGが7000人削減。同じくオランダの電機大手フィリップスも、08年第4四半期が2003年以来の赤字に転落したことを受け、世界全体の従業員12万1000人のうち6000人を解雇する。

インドの財閥タタ傘下の鉄鋼大手コーラスは3500人の削減を発表。うち2500人は、英国の従業員2万4000人から減らす。高級車ジャガーやランドローバーも買収したタタは、世界全体で4万2000人の従業員を抱えており、3500人の希望退職を目指す。

全米企業エコノミスト協会(NABE)はエコノミストへの調査結果として、経費節減を目的とした人員削減が今後1年間は続くとの見通しを発表。回答したエコノミスト105人の多くは、既に史上最低水準にある米国の生産高がさらに減少すると見ている。NABE関係者は、今回の調査で明らかになったビジネス環境について、1982年の調査開始以来最悪だとコメントした。


---人員削減:1日で5万9千人 GMなど米大手発表---
毎日新聞 2009年1月27日 11時03分(最終更新 1月27日 13時24分)
http://mainichi.jp/select/world/news/20090127k0000e020023000c.html?link_id=RSD05

 【ワシントン斉藤信宏】急速な景気悪化に陥っている米国で26日、大手企業による人員削減が相次いで発表された。削減数は米産業機械大手キャタピラーの2万人を筆頭にこの日の発表分だけで計5万9000人に達し、年明けからの4週間弱の累計は既に13万人を超えた。オバマ米大統領は「今後2年間での400万人の雇用創出」を掲げて大型景気対策の実施を急いでいるが、足元の景気悪化で逆に大量の職が失われる事態に直面しており、早くも目標達成を危ぶむ声が上がっている。
 26日に新たに人員削減を発表したのは計6社。キャタピラーが早期退職勧奨も含めて全世界で従業員を減らすほか、自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)は北米工場で従業員を削減。医薬品大手ファイザーも同業大手ワイスの買収に伴い大規模な人員削減に踏み切る。いずれも08年秋以降の収益悪化が人員削減の主因で、人件費の切り詰めで業績改善を目指す。
 また、年明け以降、家電小売り大手のサーキット・シティが会社清算を決めたことで約3万4000人の解雇が決まっているほか▽アルミ大手アルコアの1万5200人▽ゼネラル・エレクトリック(GE)の1万1000人▽航空機大手ボーイングの4500人--など、大規模削減の発表が相次いでいる。
 米国の就業者数は08年、約259万人減少し、第二次世界大戦後では最悪の雇用情勢となった。09年に入っても、人員削減の動きに歯止めがかかっておらず、昨年12月に7.2%まで上昇した失業率は「半年以内に2ケタに迫る」(米調査会社ムーディーズ・エコノミー)との見方も出ている。


---JR東海会長、新幹線が最適=米カリフォルニアに売り込み---
2009/01/27-14:53
http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2009012700512

 【ロサンゼルス27日時事】「安全性、効率性などの点で新幹線が最適」-。JR東海の葛西敬之会長は26日、ロサンゼルスで開かれた環境問題に関する国際会議でカリフォルニア州が計画している州縦断高速鉄道に新幹線を強く売り込んだ。同計画でJRトップが加州を訪れるのは初めてで、日本政府とJRの期待の高さを示した形だ。
 同会長は「プロジェクトは日本政府が進めるもので、まだ手を挙げる段階ではない」とあくまで慎重。しかし、会議の分科会で欧州の高速鉄道との比較優位を強調し、出席者の喝采(かっさい)を浴びた会長は「好意的に受け止めてくれた」と手応えを感じた。
 環境問題への取り組みに積極的なオバマ政権の誕生、米景気の後退、中東情勢の不安を背景にしたガソリン価格再高騰への不安などで高速鉄道導入への機は熟しつつあり、政府・JRは州へのPRを積極化する方針だ。
 同州では昨年11月、鉄道の総工費320億ドル(約2兆8000億円)のうち100億ドルを州債発行で賄う住民提案が成立。ロス-サンフランシスコ間約700キロを2時間38分で結ぶ「加州版新幹線」が実現に向け1歩踏み出している。


---1年間で失業者65万人増 米加州、失業率9・3%---
2009.1.24 12:43
http://sankei.jp.msn.com/world/america/090124/amr0901241243021-n1.htm

 米カリフォルニア州政府が23日発表した2008年12月の失業率は、景気悪化の影響で前月より0・9ポイント高い9・3%で、1994年1月以来の高水準となった。失業率5・9%だった1年前より、失業者数が65万3000人増えた。
 サブプライム住宅ローン問題や金融危機により、建設業や製造業を中心に就業者数が減少。08年12月の失業者数は前月より16万6000人多い173万2000人で、うち78万5200人が解雇された労働者という。
 米シンクタンクによると、カリフォルニア州の07年の州内総生産は全米トップで、諸外国との比較では世界第8位。(共同)


---【鼓動】カリフォルニア州破産? 「財政赤字」許容なき地方政府---
2009.1.19 17:48
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090119/lcl0901191749003-n1.htm

 底が見えない景気悪化が続く中、「カリフォルニア州の破産」という、一見荒唐無稽(むけい)な事態が起きる可能性が取りざたされている。シュワルツェネッガー知事はこのほど行った年頭施政方針演説で、「このままでは2月中にも、わが州は支払い不能に陥る」と、非常事態を宣言した。だが、同じく自治体破綻(はたん)が問題となっている日本とは、ずいぶんと事情が異なる部分もある。「黄金州」の別名を持つカリフォルニアの金庫事情をさぐった。
(カリフォルニア州北部バレホ 松尾理也)

警官が来ない
 「泥棒が入っても、犯人が逃走ずみなら警官は来ない。それどころか、警察に電話しても応対するのは留守番電話だけだ」
 サンフランシスコ北方約50キロに位置する人口約12万人の地方都市、バレホ。人員削減で閑散とした市役所内で、オズビー・デービス市長は「破産」の厳しい現実を説明する。
 同市は昨年5月、米国地方自治体に適用される連邦破産法第9条を申請し、破綻した。高コスト体質に苦しんでいた同市にとって、サブプライムローン問題は決定的な一撃となった。
 「問題の構造は、多くの地方自治体に共通している」。そのデービス市長の言葉を裏付けるように、昨年末からカリフォルニア州の財政危機が指摘され始めた。シュワルツェネッガー知事は同州が今後18カ月の間に420億ドル(3兆8000億円)の赤字に直面するとの見通しを明らかにした上で、1月15日に行った施政方針演説で「このままでは数週間で州の金庫はからっぽになる」と非常事態を宣言した。

前代未聞の事態
 州が支払い不能になるとどんな事態が起きるのか。
 バレホ市が適用を申請した連邦破産法第9条は、州には適用されない。つまり、州には破産、あるいは日本における財政再建団体指定といった法的措置はない。米国では大恐慌時にも州の破綻は起きておらず、これまで想定されていなかった事態といっていい。
 現実に支払い不能に陥った場合、カリフォルニア州は各種の支払いを全面的にストップし、かわりに借用証を発行すると説明している。「IOU」と呼ばれるこの書類、実は1992年に一度、暫定的に発行されたことがあった。
 当時は公務員向けの信用組合などがIOUを引き受け、現金化した。しかし、今回は情勢も異なり、金融機関が金化に応じるかどうかは不明だ。このほか、バレホ市でみられたような警察、消防をはじめ教育、道路などのインフラ整備など、あらゆる住民サービスの低下はさけられない。

州の地位に変化?
 知事がいう420億ドルの負債を3500万人の州民1人当たりに換算すれば1200ドル(10万8500円)。破綻した夕張市の住民1人当たり負債額が500万円近くに達していたことからすれば、カリフォルニア州財政はまだまだ“健全”なレベルともいえる。
 にもかかわらず「破綻」が取りざたされる背景には、米国で多くの自治体に義務づけられている財政均衡規定の存在がある。この規定が適用されない連邦政府は巨額の財政赤字が許容されるが、地方政府は基本的に赤字垂れ流しは許されない。このために、日本からみれば問題のない水準の赤字であっても、緊急事態に発展するわけだ。

 そうした意味で、「『破綻』『破産』といった言葉が飛び交うのは、ある程度、政治的なやりとりと考えていい」と、民間シンクタンク・カリフォルニア経済研究所のスティーブン・レビー所長は指摘する。ただし、現在の財政危機を軽視するべきではない、とも付け加えた。「最終的なツケは結局、州民に回ってくる」からだ。
 米国では伝統的に、地方政府である州は連邦政府への従属を嫌い、高い独立性を保ってきた。このため、州が連邦政府から救済を受けたケースはこれまで、一部をのぞいてなかった。
 しかし今回、シュワルツェネッガー知事はすでに連邦政府に緊急融資を要請する書簡を送付している。「金融、自動車と公的資金による救済が続いた08年に続き、今年は地方自治体救済の年になるかもしれない」(レビー所長)。それは、高度な地方分権を守ってきた米社会の仕組みの根本的な変化につながる可能性をも秘めている。

■米地方財政危機 景気後退による税収の減少を受け、カリフォルニア以外の州でも財政状況は悪化の一途をたどっており、昨年末の発表では10億ドル以上の赤字を抱える州がカリフォルニア、イリノイ、フロリダなど9州、その他赤字に転落した州も多数に上った。市町村レベルではさらに深刻で、ジョージア州アトランタ市が自治体業務の金曜休業を打ち出すなど、市民生活に影響も出始めている。

2009年1月26日月曜日

定額給付金の使い道

茨城県医師会有志の定額給付金の使い道が面白い。
茨城県医師会の有志が、政府の定額給付金に抗議するため、会員の開業医ら
約1400人に給付分の寄付を呼び掛ける団体を設立したと発表した。

堀江貴文のファンドを設立して寄付金を集め、集中投資しようと言う案も
あるようだが、ファンドに寄付し、どのように使われるかさえわからない
のに怪しいファンドに金を寄付することはできないだろう。
橋の下通るのように自治体に寄付と言う案もある。
自分の意思を伝えるのであれば、茨城県医師会有志の案はとても面白い
と思う。


---定額給付金の寄付呼び掛け 茨城県医師会、民主候補に献金---
2009年1月26日 17時09分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009012601000455.html

 茨城県医師会の有志が26日、政府の定額給付金に抗議するため、会員の開業医ら約1400人に給付分の寄付を呼び掛ける団体を設立したと発表した。集まった資金は県医師会の政治団体、県医師連盟が次期衆院選で推薦を決めている県内の民主党候補に献金する。
 団体名は「茨城から定額給付金で医療を変える会」。小松満代表(県医師会副会長)は同日、記者会見し「(定額給付金の)2兆円を本当に困っている人に使うのが筋。抗議のために自民党の政策で民主党に資金が回る一番皮肉なことをやろうと思った」と話した。
 同会は銀行口座を開設し、団体の趣意書と振込用紙を開業医らに郵送する。給付金と同額の1万2000円を1口として3月末を締め切りに「前払い」で寄付を求める。150-200人が目標としている。(共同)

差別を助長する海外報道記事

差別を助長する海外報道記事が目立つ。
昔、少数派で奴隷扱いであった黒人が、米大統領となった。
日本ではもっと早く少数派が総理大臣になれたかも知れないと言ういくつか
の海外メディアの報道があった。
そもそもオバマは奴隷の末裔ではないし、完全な黒人でもない。
それに、低学歴でもないし、貧困育ちでもない。
さらに、オバマが尊敬する奴隷解放で有名なリンカーンは奴隷所有者の娘を
妻としている。
オバマは就任演説で仏教徒を無視し、存在しないと言う表現までしている。
権力を持つ白人が権力を行使して有色人種へ差別を行い、反権力に対抗する
有色人種が権力打倒として白人を差別する。この構造は何も変わらない。

これらの記事では大きく間違っている部分がある。
一番大きいのは、部落民全てが日本人の子孫では無いと言うことだ。
人類学的に日本人は、多人種多民族による融合であったことは今では
日本の多くの人にとって常識である。
また、2006年国連の調査に関しても、調査意図の背景を調べれば、資料
として扱えるかは即断できる。
NorimitsuOnishi、Ian Priestley、MakikoInoue、MariYamaguchiにしても、
日本の歴史を理解せず、商業主義の記事を書くまたは編集する知日派なの
だろう。
この記事は、結局、中曽根康弘、森喜朗等の日本人単一民族説に同調する
差別主義が根本にある。日本叩きの頃の箸の製造方法の無知さを露呈した
アホな記者がいたが、同類だ。

根底にある麻生炭鉱への強制連行や創氏改名発言による侮辱等を日本人
全てにぶつけるのではなく、アスホールにぶつけるべきだ。

記事で言う少数派民族の将来は、その民族が決めるべきことで、不遇な歴史
として扱うか、伝統継承とするかは、傍観者が扇動するものでもないし、
周囲が決めるものではないのだろう。

部落民には記載されていないが、Burakuminには、関連する数値、固有名称や
氏名が記載されているが、正しい資料なのだろうか。


<ヤクザ育成部落>差別問題でヤクザが育つ 1/2


<ヤクザ育成部落>差別問題でヤクザが育つ 2/2


麻生首相の演説に、野中広務は、、、1


麻生首相の演説に、野中広務は、、、2


麻生首相の演説に、野中広務は、、、3


北朝鮮による日本人拉致事件の解決を遅らせた反日売国奴議員達

ゾマホン zomahon[奴隷海岸の説明]
http://jp.youtube.com/watch?v=H2A0iH_3xVU


アメリカ史 黒人奴隷(英語)


黒人奴隷人身売買の様子(英語)


Racism in Tokyo 東京の人種差別[comedy]


---【一筆多論】乾正人 仏教徒を無視した大統領---
2009.1.26 07:51
http://sankei.jp.msn.com/world/america/090126/amr0901260753001-n1.htm

 世の中に「これは凄(すご)い」という人物はめったにいないが、起訴休職外務事務官の佐藤優氏は、好き嫌いは別にしてめったにいない人物の一人であろう。
 なにしろ、執筆量が半端でない。1カ月に400字詰め原稿用紙1750枚(対談含む)書いたこともあり、今は月1000枚を上限にしているとか。1日平均33枚。3枚半の「一筆多論」を丸1日かけて書いている筆者には想像もつかない。莫大(ばくだい)な執筆量を支えているのが、1日6時間かける読書だ。公開文書こそ情報の宝の山だという。
 その佐藤氏が先日、ラジオ(ニッポン放送「上柳昌彦のお早うGoodDay!」)で、オバマ大統領の就任演説では、次の一節に注意すべきだと語っていた。
 「われわれはキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、そして無神論者の国だ」
 なんの変哲もない個所だが、「ヒンズー教徒」をさりげなく盛り込み、インドの顔を立てたというのだ。アフガニスタン作戦を成功させるには、インドの協力が不可欠だからで、「オバマは本気だ」と佐藤氏は言う。
 佐藤流をまねれば、このくだりで注目すべき点がもうひとつある。「仏教徒」がまったく無視されていることだ。
 まさか、聡明(そうめい)な大統領が、ヒンズー教と仏教は同じと認識しているわけではあるまい。それだけ米国では、仏教が控えめな存在なのだろうが、通夜や葬式で念仏を唱える程度の「仏教徒」の私でさえイヤな感じがしたほどだから、米国で布教に力を入れている仏教関係者のショックはいかばかりだろう(世俗のことだから気にしないのかもしれないが)。

 ここから先は、筆者の邪推であるが、米国内の仏教徒に目が向いていないように、仏教徒の多い日本にも大統領はあまり関心がないのではないか。
 大統領選中のスピーチでも、丈夫な枕になりそうな分厚い著書でも日本については、ほとんど触れていない。
 国務長官に就任したヒラリー・クリントン氏が、議会公聴会で「日本は米アジア政策の要石」と発言しているのが救いだが、肝心の大統領が無関心では話にならない。
 日本の国益のためには麻生太郎首相が一刻も早く大統領と会談し、日米同盟の強化を確認すべきなのだが、事はそう簡単ではない。
 「日米同盟の強化」といった美辞麗句をうたいあげるためだけの会談では、ホワイトハウスは首を縦に振らないだろう。なにしろ、日本の政情不安定は「世界の常識」で、本格的な首脳会談は総選挙後でいい、と米側が考えても不思議ではない。
 同盟強化のヒントは、これまた大統領演説の中にある。
 「リスクを取る者、実行する者(中略)、多くは目立たず苦労している男女こそが、われわれを繁栄と自由への長く険しい道へと運び上げてくれた」

 麻生首相は、大統領が対外政策で最優先事項に挙げたアフガニスタンの平和構築に、日本が自衛隊派遣を含め具体的にどう協力するか早急に示さねばなるまい。言うは易(やす)く行うは難し。小紙は別にしても「リスクをとる」ことにメディアの大半と野党が猛反対するはずだからだ。
 無理ならカネを出すしかないが、納税者は怒り、日米関係も冷却化は免れまい。その方がいい、というなら話は別だが。


---Discrimination claims die hard in Japan---
Despite official claims, prejudice against former 'buraku' outcasts said active from bottom to top
By MARI YAMAGUCHI
The Associated Press
Sunday, Jan. 25, 2009
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20090125a2.html

As the United States welcomes its first African-American president, Japan is still struggling with prejudices that are preventing it from breaking ancient taboos and installing a minority as its leader, some say.

Nearly a decade ago, seasoned politician Hiromu Nonaka was on the verge of becoming prime minister in a heated battle with the man who now holds the post, Taro Aso.

The issue took an ugly turn when Nonaka's roots as a "burakumin," or a descendant of former outcasts, was allegedly raised by Aso, the scion of a wealthy, establishment family.

The burakumin are the descendants of people who were considered under Buddhist beliefs to be unclean - butchers, tanners, undertakers - and separated from the general population.

Though Japan officially did away with its caste system several years after the 13th Amendment of the U.S. Constitution abolished slavery in 1865, discrimination against the burakumin remains strong, affecting everything from their employment to their marriage prospects and social interaction.

Maps detailing the areas where the burakumin were once forced to live together in enclaves are still used to "out" people who don't want their roots known.

About 900,000 people live in areas designated as "buraku," mostly in western Japan.

Nonaka never hid his roots.

He was raised in a buraku farming village in the ancient capital of Kyoto, but that did not stop him from surging to top posts in the ruling party and government. Known as "the shadow premier," the charismatic Nonaka served in the government's No. 2 post as chief Cabinet secretary when Prime Minister Yoshiro Mori quit. That made him the man most likely to succeed.

But in a back room meeting of party elders in 2001, Aso allegedly told his fellow faction members: "We are not going to let someone from the buraku become the prime minister of Japan, are we?"

For reasons that remain unclear, Nonaka pulled out of the 2001 leadership race. Aso lost. Junichiro Koizumi came to power instead.

Aso has denied making the comment. But it has come back repeatedly to haunt him.

The alleged remark was made public in a 2004 book. It was raised in the Diet in 2005, and Aso denied ever saying it. Since Aso took office in September, however, it is back in the media spotlight.

One of the people who attended the meeting, Hisaoki Kamei - now a leader of a small opposition party - told The Associated Press through his secretary that he recalled Aso making a remark "to that effect."

Kamei declined to elaborate, adding he did not plan to push Aso over the issue because it would be like beating a dead horse.

Nonaka was not at the meeting where the alleged remark was made but has nonetheless said he would "never forgive" Aso for the comment. In a recent TV interview, he said Aso's prime ministership is "misery" for Japan.

"A man who grew up without seeing any of the suffering of the lowly people, he never looks at the public to share their perspective," Nonaka said of Aso.

No one picked up the phone in Nonaka's office, so he could not be reached for comment.

Tomoaki Iwai, a political science professor at Nihon University in Tokyo, said prejudice against burakumin likely still exists in politics, which is dominated by second- or third-generation lawmakers from blue blood families.

Iwai said Nonaka was also likely a target of bitter envy in the ruling party, because he quickly climbed to top posts in the ruling party and government, though he said Nonaka's decline was due to his back room deals - which Koizumi opposed.

Iwai said the allegations of Aso's comment didn't generate much outrage because many people share such views, or are afraid of questioning them.

"Everybody is staying away from the issue, and not even taking it up as a scandal, because the topic is still a major taboo in this country," he said.

In recent years, however, a growing number of people from the former buraku have achieved success in academics, businesses and politics, including several who have been elected to the Diet. Japan has spent nearly -15 trillion ($170 billion) on affirmative action programs for the buraku since 1969, according to government figures.

So the door to the prime ministership may not be completely shut, Iwai said.

"You never know," Iwai said. "Prejudice against them has softened to the extent it is hardly felt, at least in Tokyo."


---Breaking the silence on burakumin---
Minority community has plenty to offer
By IAN PRIESTLEY
Tuesday, Jan. 20, 2009
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20090120zg.html

For those who don't know - and you would be forgiven considering the lack of coverage the issue receives - a buraku is the term used to describe an area where some, but not all, of the residents have ancestral ties to the people placed at the bottom of feudal society in the Edo Period. These people were assigned tasks considered "tainted" according to Buddhist and Shinto beliefs, such as butchery and leather work, where the killing of and use of animal corpses was involved. Today, official statistics put the number of burakumin at around 1.2 million, with unofficial estimates as high as 3 million.

Despite the numbers, the issue is something of a taboo in Japan: Mention the word "burakumin" in conversation and the response you often get is a polite silence. This approach seems to extend to the mainstream media, with television and newspapers barely covering the issues regarding this minority group.

On the Internet, where people are less likely to be held accountable for what they say, things are different. On one discussion forum, a human resources worker explains that his company will not employ someone "if there is doubt about whether he/she comes from a buraku." Another contributor says that while the habit of not employing people from buraku areas may have ceased for big companies, "for smaller, older companies, it is normal."

As well as postings supporting the view that discrimination exists, you are just as likely to come across the opinion that not only is discrimination a thing of the past, but that buraku communities have unfairly benefited from special treatment by the government. There is criticism of the funding of dowa projects, first set up to help buraku communities in the 1960s, as well as allegations of corruption and links to organized crime.

On popular sites like 2channel, the topic is often discussed in less measured, often abusive, terms. This was noted by a U.N. report into discrimination in 2006, which criticized the level of discriminatory abuse on Web sites, much of it targeting the burakumin.

Dismissing all criticism as bigotry, however, would be unfair. Or more specifically, criticism leveled at the group representing them, the Buraku Liberation League. Recent events have not done much for their image. The 2006 arrest of a leading member of the Osaka BLL, Kunihiko Konishi, and the revelation that he was a member of Yamaguchi-gumi, Japan's largest mob syndicate, did little to weaken the accusations of links to organized crime.

On his blog, freelance journalist and BLL critic Atsushi Terazono sees the image associated with the BLL as having worked in the group's favor, allowing them to gain preferential treatment and funding for projects with few questions asked.

"As long as the projects were related to non-discriminating activity, things were accepted in local government even though they were preposterous." writes Terazono. "The most important thing for people in local government has become trying to avoid collisions with the BLL and other organizations."

After the arrest of Konishi, the BLL issued an apology, and pledged to "reform more than 2,000 branches all over Japan, ensuring the liberal conduct of each group, making sure there are no connections to gangster groups and getting rid of those who are related to them."

The scandal seems to have had an impact on local government attitudes to support for buraku communities. Osaka Gov. Toru Hashimoto's budgetary plan for 2009 allows no further subsidies for buraku-related projects. This has led to protests from within the buraku community that they are being punished for the crimes of certain individuals.

Aside from the accusations of corruption, central to the whole issue of funding is the question of whether, or to what extent, discrimination still exists.

In his 2006 report, then-U.N. Special Rapporteur on race issues Doudou Diene described discrimination as "deep-rooted" and urged the government to draft a national law against it. A recent survey conducted by the Osaka prefectural government on the attitudes of residents toward human rights issues seemed to support the U.N. view. To the question of how respondents consider the placing of priority on family lineage when deciding on a future spouse, 38.7 percent said that they "think it natural" or "think it unreasonable but cannot do anything about it," a 6.3 point increase from a 1995 survey. In terms of important issues in deciding on a potential spouse, 20 percent answered, "Whether he/she is of buraku origin." In Tottori, a study of the economic situation of dowa communities revealed that 55.6 of dowa district residents are in permanent employment - 8.7 points lower than the prefectural average, indicating a worsening of conditions since 2000.

Discrimination and its effects are not an easy thing to gauge, especially when communication between buraku communities and the rest of society is so limited. Apart from the Konishi case, the public has heard little else about the burakumin in recent years. A joint statement issued by a group of 71 nonprofit organizations in the wake of the U.N. report recognized this and called for an end to "the marginalization and invisibility" of minority groups in Japan.

Ironically, this invisibility may be partly due to the BLL itself. Buraku issues are considered dangerous, and there is a fear that mere mention of the word "burakumin" or criticism of something related to dowa policy may be construed as discriminatory.

"People are not sure what they can say," said one journalist who, as seems to be the norm, wished to remain anonymous. "If they talk about this issue and mention some area which is buraku or criticize the BLL it might be called discrimination, so it is easier to say nothing."

He has a point. The BLL seems to employ a rather broad view of discrimination that makes discussion difficult. For example, a comment placed on a Web site asking for information about the location of buraku areas was cited as an example of "a discriminatory incident" on the BLL-related Buraku Liberation and Human Rights Research Institute home page. Yet surely this depends on how that information is used rather than the question itself? The reaction is understandable given the way such information has been used in the past, when buraku lists were once circulated around companies, but it hardly promotes understanding. Researchers also note the difficulty of communicating with the BLL. The group declined to comment for this article.

There seems to be confusion all round as to whether invisibility is a problem or a solution. A suggestion on another discussion site underlines this, with the writer wondering why "the burakumin don't move out of their communities so people don't know their background." Another contributor suggests that if "more outsiders move in, areas won't be considered buraku anymore."

But if invisibility is a goal, this implies that the buraku community has nothing to offer in terms of its history, culture and particular experience, and this is not the case. In Kansai, the Naniwa buraku community celebrates its 300-year history with a 500-meter road showcasing the traditional buraku industries of leather work and taiko drum production. The road - lined with monuments to the community, information boards and taiko-shaped benches - leads to the Osaka Human Rights Museum, where that other important aspect of buraku culture is investigated: its involvement in the human rights struggle, documented through the literature and art of those who have suffered often terrible discrimination.

In places with a relatively large buraku population, some attempts have been made to bring the problems into the light. One of the areas that the U.N.'s Diene visited was the Nishinari district in Osaka. Here, district leaders reported that racism and xenophobia were "deeply linked with ignorance" and that "neighboring districts are much less discriminating than ones that are far away." The district is thus making efforts to establish links between buraku and nonburaku communities, promoting mutual awareness.

It would be nice if the Japanese media took its cue from such an approach and, instead of avoiding the issue, took heed of the recommendation from the U.N. report that the national media "give more space to programs on minorities in order to reflect the pluralism of its society." This could only be done with help from those charged with representing the buraku communities. Encouraging easier media access and allowing for debate would, as well as allowing the BLL to show it has cleaned up its act, take the issue out of the shadows of Internet chat forums and into the open. Then, perhaps, the public would gain a better understanding of what it is like to come from a buraku and of how the lives of those who do are affected. And surely, in the long run, access to information is a much more effective weapon than invisibility in the fight against discrimination.


---Japan's outsiders waiting to break in---
By Norimitsu Onishi
Published: January 16, 2009
http://www.iht.com/articles/2009/01/16/news/japan.php

KYOTO: For Japan, the crowning of Hiromu Nonaka as its top leader could have been as significant as America's election of its first black president.

Despite being the descendant of a feudal class of outcasts who are known as buraku and still face social discrimination, Nonaka had dexterously occupied top posts in the governing party and acted as the government's No. 2. The next logical step, by 2001, was to become prime minister. Allies urged him on.

But not everyone inside the party was ready for a leader of buraku origin. At least one, Taro Aso, the current prime minister, made his views clear to his closest associates in a closed-door meeting. "Are we really going to let those people take over the leadership of Japan?" Aso said, according to Hisaoki Kamei, a politician who attended the meeting.

Kamei said he remembered thinking at the time that "it was inappropriate to say such a thing." But he and the others in the room let the matter drop, he said, adding, "We never imagined that the remark would leak outside."

But it did, spreading rapidly among the nation's political and buraku circles. And more recently, as Aso became prime minister just weeks before Barack Obama's victory, the comment has become a touchstone for many buraku.

How far have they come since Japan began carrying out affirmative action policies for the buraku four decades ago in a mirror of the American civil rights movement? If the United States, the yardstick for Japan, could elect a black president, could there be a buraku prime minister here?

But the questions were not raised in the society at large. The topic of the buraku remains Japan's biggest taboo, rarely raised in private conversations and virtually ignored by the media.

The buraku, who are ethnically indistinguishable from other Japanese, are descendants of Japanese who, according to Buddhist beliefs, performed tasks considered unclean. As slaughterers, undertakers, executioners and town guards, they were called "eta," meaning "defiled mass," or "hinin," meaning "nonhuman." Required to wear telltale clothing, they were segregated into their own neighborhoods.

The oldest buraku neighborhoods are believed to be in Kyoto, the ancient capital, and date back a millennium. That those neighborhoods survive to this day and that the outcasts' descendants are still subject to prejudice speak both to Japan's obsession with its past and its inability to overcome it.

In Japan, every person has a family register that is kept in local town halls and that, with some extrapolation, reveals ancestral birthplaces. Families and companies widely checked birthplaces to ferret out buraku among potential hires or marriage partners until a generation ago, though the practice has declined greatly, especially among the young.

The buraku were officially liberated in 1871, just a few years after the 13th Amendment abolished slavery in the United States. But as the buraku's living standards and education levels stayed below national averages, the Japanese government, under pressure from buraku liberation groups, passed a special-measures law to improve the buraku's condition in 1969. By the time the law expired in 2002, Japan had reportedly spent about $175 billion on affirmative action programs.

Fumie Tanaka, now 39, was born just as the special-measures law for the buraku went into effect. She grew up in the Osaka ward of Nishinari, one of the 48 neighborhoods that were officially designated as buraku areas.

At her neighborhood school, the children began learning about discrimination against the buraku early on. The thinking in Osaka was to confront discrimination head on: The problem lay not with the buraku but with those who harbored prejudice.

Instead of hiding their roots, children were encouraged to "come out," sometimes by wearing "buraku" sashes, a practice that Osaka discontinued early this decade but that survives in the countryside.

Sheltered in this environment, Tanaka encountered discrimination only when she began going to high school in another ward. One time, while she was visiting a friend's house, the grandparents invited Tanaka to stay for lunch.

"The atmosphere was pleasant in the beginning, but then they asked me where I lived," Tanaka said. "When I told them, the grandfather put down his chopsticks right away and went upstairs."

A generation ago, most buraku married other buraku. But by the early 1990s, when Tanaka met her future husband, who is not a buraku, marriages to outsiders were becoming more common.

"The situation has improved over all," said Takeshi Kitano, chief of the human rights division at the Osaka prefectural government. "But there are problems left."

In Osaka's 48 buraku neighborhoods - ranging from 10 to 1,000 households each - welfare recipient rates remain higher than the Osaka average. Educational attainment still lags behind, though not by the wide margins of the past.

What's more, the fruits of the affirmative action policies have produced what is now considered the areas' most pressing problem: depopulation. The younger buraku, with better education, jobs and opportunities, are moving out. Outsiders, who do not want to be mistaken for buraku, are reluctant to move in.

By contrast, Tokyo decided against designating its buraku neighborhoods. It discreetly helped buraku households, no matter where they lived, and industries traditionally dominated by buraku groups. The emphasis was on assimilation.

Over time, the thinking went, it would become impossible to discriminate as people's memory of the buraku areas' borders became fuzzier. But the flip side is that the policy effectively pushed people with buraku roots into hiding.

In one of the oldest buraku neighborhoods, just north of central Tokyo, nothing differentiates the landscape from other middle-class areas in the city. Now newcomers outnumber the old-timers. The old-timers, who all know one another, live in fear that their roots will be discovered, said a 76-year-old woman who spoke on the condition that neither she nor her neighborhood be identified.

"Me, too, I belong to those who want to hide," she said. "I'm also running away."

One of the rare politicians who never hid his buraku roots was Nonaka, who in 2001 was considered a leading contender to become president of the Liberal Democratic Party and prime minister.

Now 83, he was born to a buraku family from a village near Kyoto. On his way home at the end of World War II, he considered disappearing so that he would be declared dead, he once wrote. With the evidence of his buraku roots expunged, he thought he could remake himself in another part of Japan.

But Nonaka eventually entered politics and, known for his intelligence, rose quickly. By 2001, he was in a position to aim for the post of prime minister but had made up his mind not to seek the job.

Although he had never hidden his roots, he feared that becoming No. 1 would draw a harsh spotlight on them. Already, the increasing attention had hurt his wife, who is not from a buraku family, and his daughter.

"After my wife's relatives first found out, the way we interacted changed as they became cooler," Nonaka said in an interview in his office in Kyoto. "The same thing happened with my son-in-law. So, in that sense, I made my family suffer considerably."

But rivals worried nonetheless. One of them was Aso, now 68, who was the epitome of Japan's ruling elite: the grandson of a former prime minister and the heir to a family conglomerate.

Inside the Liberal Democratic Party, some politicians labeled some of Nonaka's closest allies as fellow buraku who were hiding their past.

"We all said those kinds of things," recalled Yozo Ishikawa, 83, a retired lawmaker who was allied with Aso.

"That guy's like this," Ishikawa said, lowering his voice and holding up four fingers of his right hand without the thumb, a derogatory gesture indicating a four-legged animal and referring to the buraku.

And so, at the closed-door meeting in 2001, Aso made the comment about "those people" in a "considerably loud voice," recalled Kamei, the politician who attended the meeting. Kamei, now 69, had known Aso since their elementary school days and was one of his biggest backers.

Aso's comment would have stayed inside the room had a political reporter not been eavesdropping at the door - a common practice in Japan. But because of the taboo surrounding the topic of the buraku, the comment was never widely reported.

Two years later, just before retiring, Nonaka confronted Aso in front of dozens of the party's top leaders, saying he would "never forgive" him for the comment. Aso remained silent, according to several people who were there.

It was only in 2005, when an opposition politician directly questioned Aso about the remark in Parliament, that Aso asserted, "I've absolutely never made such a comment."

The prime minister's office declined a request for an interview with Aso. A spokesman, Osamu Sakashita, referred instead to Aso's remarks in Parliament.

In the end, Nonaka's decision not to run in 2001 helped a dark horse named Junichiro Koizumi become prime minister. Asked whether a Japanese Obama was now possible, Nonaka said, "Well, I don't know."

That was also the question asked by many people of buraku origin recently as they wavered between pessimism and hope.

"Wow, a black president," said Yukari Asai, 45, one of the two sisters who owns the New Naniwa restaurant in the Osaka ward of Naniwa, Japan's biggest buraku neighborhood.

"If a person's brilliant, a person's brilliant," she said, reflecting on Obama's election. It doesn't matter whether it's a black person or white person."

After serving a bowl of udon noodles with pieces of fried beef intestine, a specialty of buraku restaurants, Asai sounded doubtful that a politician of buraku origin could become prime minister.

"Impossible," she said. "Probably impossible."

In Kyoto, some had not forgotten Aso's comment.

"That someone like that could rise all the way to becoming prime minister says a lot about the situation in Japan now," said Kenichi Kadooka, 49, a professor of English at Ryukoku University who is from a buraku family.

Still, Kadooka had not let his anger dim his hopes for a future buraku leader of Japan.

"It's definitely possible," he said. "If he's an excellent person, it's just ridiculous to say he can't become prime minister because he just happened to be born a buraku."


---Japan’s Outcasts Still Wait for Acceptance---
By NORIMITSU ONISHI
Published: January 15, 2009
http://www.nytimes.com/2009/01/16/world/asia/16outcasts.html?_r=1&scp=2&sq=Norimitsu+Onishi&st=nyt

KYOTO, Japan - For Japan, the crowning of Hiromu Nonaka as its top leader would have been as significant as America’s election of its first black president.

Despite being the descendant of a feudal class of outcasts, who are known as buraku and still face social discrimination, Mr. Nonaka had dexterously occupied top posts in Japan’s governing party and served as the government’s No. 2 official. The next logical step, by 2001, was to become prime minister. Allies urged him on.

But not everyone inside the party was ready for a leader of buraku origin. At least one, Taro Aso, Japan’s current prime minister, made his views clear to his closest associates in a closed-door meeting in 2001.

“Are we really going to let those people take over the leadership of Japan?” Mr. Aso said, according to Hisaoki Kamei, a politician who attended the meeting.

Mr. Kamei said he remembered thinking at the time that “it was inappropriate to say such a thing.” But he and the others in the room let the matter drop, he said, adding, “We never imagined that the remark would leak outside.”

But it did - spreading rapidly among the nation’s political and buraku circles. And more recently, as Mr. Aso became prime minister just weeks before President-elect Barack Obama’s victory, the comment has become a touchstone for many buraku.

How far have they come since Japan began carrying out affirmative action policies for the buraku four decades ago, mirroring the American civil rights movement? If the United States, the yardstick for Japan, could elect a black president, could there be a buraku prime minister here?

The questions were not raised in the society at large, however. The topic of the buraku remains Japan’s biggest taboo, rarely entering private conversations and virtually ignored by the media.

The buraku - ethnically indistinguishable from other Japanese - are descendants of Japanese who, according to Buddhist beliefs, performed tasks considered unclean. Slaughterers, undertakers, executioners and town guards, they were called eta, which means defiled mass, or hinin, nonhuman. Forced to wear telltale clothing, they were segregated into their own neighborhoods.

The oldest buraku neighborhoods are believed to be here in Kyoto, the ancient capital, and date back a millennium. That those neighborhoods survive to this day and that the outcasts’ descendants are still subject to prejudice speak to Japan’s obsession with its past and its inability to overcome it.

Yet nearly identical groups of outcasts remain in a few other places in Asia, like Tibet and Nepal, with the same Buddhist background; they have disappeared only in South Korea, not because prejudice vanished, but because decades of colonialism, war and division made it impossible to identify the outcasts there.

In Japan, every person has a family register that is kept in local town halls and that, with some extrapolation, reveals ancestral birthplaces. Families and companies widely checked birthplaces to ferret out buraku among potential hires or marriage partners until a generation ago. The practice has greatly declined, though, especially among the young.

The buraku were officially liberated in 1871, just a few years after the 13th Amendment abolished slavery in the United States. But as the buraku’s living standards and education levels remained far below national averages, the Japanese government, under pressure from buraku liberation groups, passed a special law to improve conditions for the buraku in 1969. By the time the law expired in 2002, Japan had reportedly spent about $175 billion on affirmative action programs for the buraku.

Confronting Prejudice

Fumie Tanaka, now 39, was born just as the special measures law for the buraku went into effect. She grew up in the Nishinari ward of Osaka, in one of the 48 neighborhoods that were officially designated as buraku areas.

At her neighborhood school, the children began learning about discrimination against the buraku early on. The thinking in Osaka was to confront discrimination head on: the problem lay not with the buraku but with those who harbored prejudice.

Instead of hiding their roots, children were encouraged to “come out,” sometimes by wearing buraku sashes, a practice that Osaka discontinued early this decade but that survives in the countryside.

Sheltered in this environment, Ms. Tanaka encountered discrimination only when she began going to high school in another ward. One time, while she was visiting a friend’s house, the grandparents invited her to stay over for lunch.

“The atmosphere was pleasant in the beginning, but then they asked me where I lived,” she said. “When I told them, the grandfather put down his chopsticks right away and went upstairs.”

A generation ago, most buraku married other buraku. But by the 1990s, when Ms. Tanaka met her future husband, who is not a buraku, marriages to outsiders were becoming more common.

“The situation has improved over all,” said Takeshi Kitano, chief of the human rights division in Osaka’s prefectural government. “But there are problems left.”

In Osaka’s 48 buraku neighborhoods, from 10 to 1,000 households each, welfare recipient rates remain higher than Osaka’s average. Educational attainment still lags behind, though not by the wide margins of the past.

What is more, the fruits of the affirmative action policies have produced what is now considered the areas’ most pressing problem: depopulation. The younger buraku, with better education, jobs and opportunities, are moving out. Outsiders, who do not want to be mistaken for buraku, are reluctant to move in.

By contrast, Tokyo decided against designating its buraku neighborhoods. It discreetly helped buraku households, no matter where they were, and industries traditionally dominated by buraku groups. The emphasis was on assimilation.

Over time, the thinking went, it would become impossible to discriminate as people’s memory of the buraku areas’ borders became fuzzier. But the policy effectively pushed people with buraku roots into hiding.

In one of the oldest buraku neighborhoods, just north of central Tokyo, nothing differentiates the landscape from other middle-class areas in the city. Now newcomers outnumber the old-timers. The old-timers, who all know one another, live in fear that their roots will be discovered, said a 76-year-old woman who spoke on the condition that neither she nor her neighborhood be identified.

“Me, too, I belong to those who want to hide,” she said. “I’m also running away.”

A Politician’s Roots

Mr. Nonaka is one of the rare politicians who never hid his buraku roots. In 2001, he was considered a leading contender to become president of the long-governing Liberal Democratic Party and prime minister.

Now 83, he was born into a buraku family from a village outside Kyoto. On his way home at the end of World War II, he considered disappearing so that he would be declared dead, he once wrote. With the evidence of his buraku roots expunged, he had thought, he could remake himself in another part of Japan, he wrote.

Mr. Nonaka eventually entered politics, and, known for his fierce intelligence, he rose quickly. By 2001, he was in a position to aim for the prime ministership. But he had made up his mind not to seek the post. While he had never hidden his roots, he feared that taking the top job would shine a harsh spotlight on them. Already, the increasing attention had hurt his wife, who was not from a buraku family, and his daughter.

“After my wife’s relatives first found out, the way we interacted changed as they became cooler,” Mr. Nonaka said in an interview in his office in Kyoto. “The same thing happened with my son-in-law. So, in that sense, I made my family suffer considerably.”

But rivals worried nonetheless. One of them was Mr. Aso, now 68, who was the epitome of Japan’s ruling elite: the grandson of a former prime minister and the heir to a family conglomerate.

Inside the Liberal Democratic Party, some politicians gossiped about Mr. Nonaka’s roots and labeled some of his closest allies fellow buraku who were hiding their roots.

“We all said those kinds of things,” recalled Yozo Ishikawa, 83, a retired lawmaker who was allied with Mr. Aso.

“That guy’s like this,” Mr. Ishikawa said, lowering his voice and holding up four fingers of his right hand without the thumb, a derogatory gesture indicating a four-legged animal and referring to the buraku.

And so, at the closed-door meeting in 2001, Mr. Aso made the comment about “those people” in a “considerably loud voice,” recalled Mr. Kamei, the politician. Mr. Kamei, now 69, had known Mr. Aso since their elementary school days and was one of his biggest backers.

Mr. Aso’s comment would have stayed inside the room had a political reporter not been eavesdropping at the door - a common practice in Japan. But because of the taboo surrounding the topic of the buraku, the comment was never widely reported.

Two years later, just before retiring, Mr. Nonaka confronted Mr. Aso in front of dozens of the party’s top leaders, saying he would “never forgive” him for the comment. Mr. Aso remained silent, according to several people who were there.

It was only in 2005, when an opposition politician directly questioned Mr. Aso about the remark in Parliament, that Mr. Aso said, “I’ve absolutely never made such a comment.”

The prime minister’s office declined a request for an interview with Mr. Aso. A spokesman, Osamu Sakashita, referred instead to Mr. Aso’s remarks in Parliament.

In the end, Mr. Nonaka’s decision not to run in 2001 helped a dark-horse candidate named Junichiro Koizumi become prime minister. Asked whether a Japanese Obama was now possible, Mr. Nonaka said, “Well, I don’t know.”

Hopes for the Future

That is also the question asked by many people of buraku origin recently, as they waver between pessimism and hope.

“Wow, a black president,” said Yukari Asai, 45, one of the two sisters who owns the New Naniwa restaurant in Osaka’s Naniwa ward, in Japan’s biggest buraku neighborhood, reflecting on Mr. Obama’s election. “If a person’s brilliant, a person’s brilliant. It doesn’t matter whether it’s a black person or white person.”

After serving a bowl of udon noodles with pieces of fried beef intestine, a specialty of buraku restaurants, Ms. Asai sounded doubtful that a politician of buraku origin could become prime minister. “Impossible,” she said. “Probably impossible.”

Here in Kyoto, some had not forgotten about Mr. Aso’s comment.

“That someone like that could rise all the way to becoming prime minister says a lot about the situation in Japan now,” said Kenichi Kadooka, 49, who is a professor of English at Ryukoku University and who is from a buraku family.

Still, Mr. Kadooka had not let his anger dim his hopes for a future buraku leader of Japan.

“It’s definitely possible,” he said. “If he’s an excellent person, it’s just ridiculous to say he can’t become prime minister because he just happened to be born a buraku.”

Makiko Inoue contributed reporting.


---It's official: Aso family mine used POW labor---
Friday, Dec. 19, 2008
By MASAMI ITO
Staff writer
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20081219a1.html

The government said Thursday it has documents showing Allied POWs worked at a coal mine run by Prime Minister Taro Aso's family during World War II.

Many similar documents have surfaced, but this is the first time the government has acknowledged that Aso Mining Co. in Fukuoka Prefecture used POWs, said Yukihisa Fujita of the Democratic Party of Japan.

"Prisoner policy is important in many ways for diplomacy, and it is a major problem that the issue has been neglected for so long," Fujita said at a news conference. "For a long time, the government has been continuing to deny the many revealed documents and the (existence of) POWs" at Aso Mining.

Although the use of POWS as laborers was not illegal in Japan during the war, their maltreatment violates the Geneva Conventions, which Japan was not party to, and the government has been reluctant to delve into the history of Aso Mining.

Fujita, who requested the probe, said the key point to the Aso Mining issue is whether the POWs were mistreated by the company.

At a meeting of the Upper House panel on foreign affairs and defense Thursday, an unnamed health ministry bureaucrat revealed that Aso Mining had used 300 Allied POWs between May 10 and Aug. 15, 1945.

Of the 300, 101 were Britons, two were Dutch and 197 were Australians. The bureaucrat also announced that two of the Australians died while working there, although their names and causes of death were not disclosed for privacy reasons.

The government also acknowledged that a report on POW treatment that Aso Mining submitted to the Japan POW Investigation Section in 1946 was authentic. The report, stored at the U.S. National Archives and Records Administration, was submitted to the panel by Fujita last month.


---Aso Mining's POW labor: the evidence---
Records the government seems unable - or unwilling - to find
Tuesday, May 29, 2007
By WILLIAM UNDERWOOD
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20070529zg.html

One year after media reports that Aso Mining used 300 Allied prisoners of war for forced labor in 1945, Foreign Minister Taro Aso is refusing to confirm that POWs dug coal for his family's firm - and even challenging reporters to produce evidence.

That is not hard to do. Records produced by both Aso Mining and the Japanese government clearly show that POWs toiled at the Aso Yoshikuma mine in Fukuoka Prefecture.

But the Foreign Ministry's provocative stance is raising questions about Japan's commitment to historical reconciliation even with current Western allies.

Last year's flurry of media coverage reflected the nationalities of the World War II prisoners involved: 197 Australian, 101 British and two Dutch. Newspaper stories in The Australian, The Age and The Sydney Morning Herald were supplemented by newscasts by the Australian Broadcasting Corp. British readers were informed by The Guardian, The Observer, The Times and The Telegraph.

Survivors of forced labor at the Aso Yoshikuma coal mine were tracked down and interviewed. An 87-year-old Australian sent a personal letter to Foreign Minister Aso, according to The Japan Times. The former POW received no reply to his request for an apology and compensation for his unpaid work for Aso Mining Co.

Japanese-language media have treated the existence of the Aso Yoshikuma labor camp, formally known as Fukuoka POW Branch Camp 26, as a virtual taboo. Taro Aso has avoided all public comment on the matter.

But when The New York Times referred to forced labor at Aso Mining last November, the Foreign Ministry issued a startling rebuttal.

According to the Web site of the Consulate General of Japan in New York: "The Government of Japan is not in a position to comment on employment forms and conditions of a private company, Aso Mining, at that time. However, our government has not received any information the company has used forced laborers. It is totally unreasonable to make this kind of judgmental description without presenting any evidence."

This attitude was criticized by Linda Goetz Holmes, a Pacific War historian and author of a book on POW forced labor called "Unjust Enrichment." Proof that Aso Mining exploited prisoner labor originated with the Japanese government in the immediate postwar period, she noted.

"The Ministry of Foreign Affairs is continuing the disturbing Japanese government trend of being unwilling to search its own archives for the corroborating evidence of POW slave labor," Holmes said. "Instead, it is challenging others to produce such records."

On Aug. 19, 1945, the Imperial Japanese government's Committee to Negotiate Surrender delivered to U.S. Army Gen. Douglas MacArthur, by hand in Manila, a list of prison camps in Japan and the names of private companies using Allied POWs. The Fukuoka section of the document shows the Camp 26 workforce was assigned to Aso's Yoshikuma colliery. This POW camp list can be found today in the MacArthur Memorial Archives in Virginia (Record Group 4, Box 23).

On Jan. 24, 1946, Aso Mining submitted a 16-page report detailing conditions at Yoshikuma to the Japanese government's POW Information Bureau, using company stationery and attaching an English translation. Ordered by Occupation authorities investigating war crimes against POWs, the company report claims the Westerners were fed, clothed and housed better than Aso's Japanese workers and Korean labor conscripts. The Aso report includes the company's Feb. 22, 1945, letter to the Japan War Ministry requesting use of 300 Allied prisoners for one year. Camp 26 opened on May 10.

These records produced by Aso Mining can be viewed in Maryland at the U.S. National Archives (Record Group 331, Box 927). The U.S. National Archives also retain the comprehensive Camp Management Report, compiled by the Japan POW Information Bureau and submitted to American military investigators in Tokyo on June 7, 1946. It confirms the "Aso Mining Industry Company" utilized 150 of the healthiest Camp 26 prisoners in the Yoshikuma coal pits. The remainder performed farm work and camp tasks like cooking and digging bomb shelters.

Arthur Gigger, now 86 and living in South Australia, recalled 12-hour shifts and "pretty primitive conditions" deep in the Aso mine.

He arrived at Camp 26 after American firebombing destroyed the Kobe shipyard where he had worked since late 1942. He became a POW when Singapore fell to Japanese forces.

"The food was certainly meager, but clothing was our biggest problem," Gigger said. "We were down to absolute tatters by the end of the war. I don't think we'd have seen it through another winter."

The Aso-compiled records, however, say prisoners' clothing was of superior quality.

Gigger disputed other aspects of Aso Mining's description of life at Camp 26. While the company reported that prisoners could "take a rest in the recreation room," Gigger insisted "there was no such thing."

The company report also claims that, soon after Japan's surrender, prisoners thanked Aso officials for their kind treatment by giving them gifts.

"That's all bull," Gigger said with a laugh. "Absolute rubbish."

Despite its often self-serving nature, such evidence of forced labor at Aso Mining exists in the national archives of other Allied countries - and in Japan. Produced by American Occupation staff based on Japanese company reports, a copy of the "Roster of Deceased Allied POWs in Japan Proper" resides at the National Diet Library in Tokyo. The roster records the names of the two Australian soldiers who died at Aso Yoshikuma: John Watson and Leslie Edgar George Wilkie. It is accessible online at the Web site of the POW Research Network Japan, run by Japanese citizens working to clarify the historical record.

Another U.S. government document in the National Diet Library is Report No. 174, issued by the Investigation Division of GHQ's Legal Section on Feb. 1, 1946. It summarizes a two-day inspection of the Camp 26 site, referring to the statement of an Aso company official as "Exhibit One." It also lists the names and ranks of Imperial Japanese Army personnel who guarded the POWs when they were not in Aso Mining's custody.

While there were no charges of war crimes involving Camp 26, the paper trail for prisoner labor at Yoshikuma is extensive. A 1982 book published by Japan's National Defense Academy also states that the camp's prisoners worked for Aso Mining.

Yet at the peak of overseas media coverage of the Aso-POW connection last July, a Foreign Ministry spokesperson appeared to dispute wartime events. The ministry official lashed out during a press conference at "malicious news reports that contained statements contrary to facts and nevertheless have aroused a lot of debate precisely because they were very far-fetched."

Prime Minister Shinzo Abe provoked international controversy more recently by doubting the evidence for Japan's wartime system of military sexual slavery. A nonbinding resolution now being debated by the U.S. Congress calls on the Japanese government to "formally acknowledge and apologize for" the comfort women system - and to refute revisionists who deny the historical reality. That could include Foreign Minister Aso, who last February described the congressional resolution as "not based on objective facts."

Aso, 66, finished second to Abe in last year's contest for prime minister and still aspires to Japan's top post. Founded in 1872, the family firm was known as Aso Cement when Taro Aso headed it in the 1970s. It is called Aso Group today and is run by Aso's younger brother.

Dozens of compensation lawsuits were filed over the past decade against Japanese corporations that profited from forced labor during World War II. All have now failed. Courts in Japan, the U.S. and elsewhere have agreed that the San Francisco Peace Treaty and other postwar accords waived the rights of victims to seek legal redress.

Hundreds of thousands of Nazi-era forced laborers and their heirs, by contrast, have received billions of dollars in compensation from the German and Austrian governments and corporate sectors since 2000. Formal apologies and educational initiatives were key components of those reparations programs.

The Japanese government should "take immediate action to bring about an honorable closure to the history of Japan's wartime forced labor," according to Kinue Tokudome, director of U.S.-Japan Dialogue on POWs. The California-based NPO promotes reconciliation on a humanitarian basis.

"As Japan's top diplomat and because of his family background, Foreign Minister Aso should be more sensitive to this issue and more willing to resolve it," Tokudome said. "No conscientious politician would just wait to receive the information that his family coal mine enslaved POWs and Asian civilians."

Arthur Gigger, long active in ex-POW groups in Australia, said Japan's Foreign Ministry should stop denying the reality of forced labor at Aso Mining.

"I know it happened," he said. "I was there."


---[噂]奴隷制度廃止運動---
Wikipedia 最終更新 2009年1月25日 (日) 08:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%BB%83%E6%AD%A2%E9%81%8B%E5%8B%95

 奴隷制度廃止運動(どれいせいどはいしうんどう、英:Abolitionism)は、奴隷制度と世界的な奴隷貿易を終わらせようとする政治活動である。ヨーロッパの啓蒙時代に始まり、19世紀のヨーロッパとアメリカ合衆国で大きな世論となり、最終的にその目的の幾つかは達成できた。ただし、今日でも子供や大人の奴隷および強制労働は広がり続けている。なお、英語では上記のようにAbolitionismという一つの単語だけで奴隷制度を対象とした廃止運動を表す習慣となっているので、注意を要する。また、 Abolitionismは一般的には廃止論あるいは廃止主義と日本語訳されるが、本稿では理論的なことに加えて奴隷制度の廃止に至る活動を取り上げたので廃止運動とした。

イギリスおよびイギリス帝国
イギリスの奴隷
 イギリスにおける強制的な隷属の最後の形態(農奴制)は17世紀の初めに消滅した。しかし18世紀までに、ロンドンやエディンバラに黒人奴隷が個人の従僕として連れて来られ始めた。この黒人奴隷は売買されたのではなく、その法的な位置付けは1772年まで不明確であった。この年、ジェームズ・サマーセットという逃亡奴隷の判例が法的な決定を下した。所有者のチャールズ・スチュアートはサマーセットの拉致を試み、ジャマイカの砂糖プランテーションで働かせるために送ろうとした。サマーセットはロンドンにいる間に洗礼を受け、洗礼親がヘイビアス・コーパス(人身保護令状)を発行した。高等裁判所主席判事のマンスフィールド卿は、イギリスに奴隷に関する法律が無かったので、イギリスの慣習法に基づいて拉致が合法か非合法かを判断しなければならなかった。1772年6月22日の判決では、「この判決から生じるかもしれない不便さはどうあれ、私はイギリスの法に照らしてこの事件は許可も容認も言うことは出来ない。よってこの黒人は放免されなければならない」と宣告した。かくして奴隷という身分はイギリスの法では存在しないことが宣言された。この判決で1万人から1万4千人と言われたイギリスの奴隷を解放し、他の法制(例えばアメリカの植民地)で契約された奴隷はイギリスでは強制されないということになった[1]。
 スコットランドにいたジョセフ・ナイトという黒人奴隷は、サマーセット事件の判決を読んだ後で、主人のジョン・ウェダーバーンの下を離れた。1776年にウェダーバーンにもサマーセット事件と同じようなことが起こり、同じ結果になった。財産としての奴隷はスコットランドの法の下では存在しなくなった(それにも拘らずスコットランドで生まれた奴隷が1799年まで存在した。この時、以前奴隷の状態に保たれていた石炭鉱夫が解放された)。

最初の段階
 イギリスで奴隷が消滅したにも拘らず、イギリス帝国領であるアメリカや西インド諸島の植民地では奴隷が生活の一部だった。
 1783年(アメリカ独立戦争の終結の年)までに、イギリスの大衆の間では反奴隷制度運動が始まりだした。この年イギリスで最初の奴隷制度廃止運動の組織がクエーカー教徒の集団によって創設された。クエーカー教徒は多くのやり方で運動を先導し、この運動が続いている間は影響力を保ち続けた。1783年6月17日、セシル・レイ卿(レットフォード選出の国会議員)がクエーカー教徒の請願を取り上げ、この問題を正式に政府に持ち上げた。1783年にはまた、ビールビー・ポーテウス主教が英国国教会に対し奴隷貿易に関わることを止めること、またアフリカ系カリブ人奴隷に注目するような実行可能な政策を作り、奴隷の待遇を改善するよう訴えた。 黒人は奴隷制度廃止運動で重要な役割を演じた。イギリスでは、その自叙伝が生きている間に9版を重ねたオローダー・エキアーノが黒人貿易に反対する疲れを知らぬ運動を続けた。

運動の成長
 1787年5月、奴隷貿易の廃止のための委員会が結成され、イギリス商人による奴隷密売である大西洋奴隷貿易に言及した。イギリス商人はブリストルやリヴァプールなどの港からイギリス製品を積み込み、アフリカの族長階層で奴隷制度と結びついている西アフリカで製品を売るか奴隷と交換し、奴隷を連れてイギリスの植民地や他のカリブ海諸国あるいはアメリカ合衆国に船で運び、そこで農園主に奴隷を売るかラム酒や砂糖と交換し、それをイギリスの港に持ち帰った。これら商人が一回の周航中に3箇所で取引をするので三国間貿易と呼ばれた。18世紀遅くには、奴隷貿易の非人道性に対する政治的な影響力が強くなっていった。多くの人々が、ある者はアフリカ人、ある者はヨーロッパ人となった子孫が奴隷制度廃止運動に影響を与えた。イギリスでよく知られた奴隷制度廃止論者は、自分自身が直に貿易の残酷さを見てきたジェイムズ・ラムゼー、グランビル・シャープ、トマス・クラークソンや福音主義改革者のクラファム派の他のメンバー達、また奴隷貿易の廃止のための委員会の大半を占めたクエーカー教徒だった。非国教徒としてクエーカー教徒は18世紀遅くや19世紀初期にイギリスの議会に入れなかったので、福音主義者のウィリアム・ウィルバーフォースがイギリス議会を説得して運動の指導者になった。クラークソンは集団の最も顕著な研究者となり、ブリストル、リヴァプールおよびロンドンなどの港で船員や元奴隷に直に面接して証言を得て、奴隷貿易に関する大量の情報を集めた。
 クラークソンの努力が功を奏して、奴隷制度廃止運動の地域の輪が全国に広がった。大衆討議の場を持ったりパンフレットや請願書を発行して運動を続けた。クラークソンや奴隷貿易の廃止のための委員会が販売促進した初期の出版物は、解放奴隷オローダー・エキアーノの自叙伝だった。この運動には解放奴隷やキリスト教宗派であるエマヌエル・スヴェーデンボリの流れを汲む新エルサレム教会、クエーカー、バプテスト、メソジストなどから支援があり、イングランド中部と北部の都市の新しい工場労働者からの支持もあった。以前は政治的に力の無かった女性や子供達も運動に関わっていった。ただし、女性の場合は集会も別のものになり、また男性で占められているイギリス議会に出る資格も無かった
 奴隷制度廃止運動の際立った計画は、西アフリカに「自由の町」を創るために土地の買収交渉を族長達と行うことだった。これはイギリス帝国やアメリカ合衆国の元奴隷を西アフリカに戻して定着させる意図があった。この私的な交渉の結果、シエラレオネの一部が1807年から1808年のイギリス議会で成立した法律で保護されることになり、その後も地域の族長達に奴隷貿易を止めさせることに合意させる交渉が続き、イギリスの西アフリカで影響力が拡大していった。この合意事項の中には、商人が奴隷を運ばないことを確実にするため、イギリス海軍の艦船が族長達の船を止める権利があることも含まれていた。
 1796年、ジョン・ガブリエル・ステッドマンは、内陸に住むマルーン(逃亡奴隷)を抑えるためにスリナムに派遣された軍隊に5年間従軍した記録を出版した。この本は奴隷の待遇を批判しており、逃亡奴隷に対して課される残酷な処遇をウィリアム・ブレイクやフランチェスコ・バルトロッチに書かせた多くの挿画を収めていた。この本は奴隷制度廃止運動に関わる書籍の中でも重要なものとなった。

1807年の奴隷貿易法
 1807年3月25日、イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法と定めた。イギリス船で奴隷が見つかった場合の科料は1人あたり100ポンドとされた。
 この法の成立によって奴隷制度廃止運動にさらに力が備えられることになった。しかし、この時期はナポレオン戦争が激しくなる時と時期を同じくしていた。ナポレオンは、フランス革命の時に廃止されていた奴隷を復活させる後ろ向きの決断をくだし、フランス領のカリブ海諸島に黒人を奴隷にする軍隊を派遣したとき、イギリス帝国はその奴隷貿易を禁じる法によって高い道徳的立場に立つことになり、戦争のあらゆる時と場所において重要な観点となった。
 この法律の意図はイギリス帝国の中で奴隷貿易を完全に違法とすることであったが、奴隷貿易は続き、イギリス海軍に捕まりそうになった船長は科料を減らすために奴隷を海に突き落とすこともしばしば行われた。1827年、イギリスは奴隷貿易に関わった者は海賊行為と見なし、死刑に値すると宣言した。

1833年の奴隷制度廃止法
 1807年の法律成立後、奴隷はイギリス帝国の中で売買されなかったものの、依然として所有されていた。1820年代、奴隷制度廃止運動が再び活発になり、この時は奴隷制度そのものに対して反対する運動であった。1823年には反奴隷制度協会が創られた。運動参加者の多くは以前の奴隷貿易に反対する運動に参加した者であった。
 1833年8月23日、奴隷制度廃止法が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした。1834年8月1日、イギリス帝国内の全ての奴隷は解放されたが、年季奉公制度で元の主人に仕える者は残った。この年季奉公も1838年には廃止された。カリブ海のプランテーション所有者には補償のために2千万ドルが支払われた。

法成立後の運動
 1839年からイギリスと海外反奴隷制度協会は他の国でも奴隷制度を違法とするよう働きかけ、奴隷貿易業者を海賊と宣言し罰することで奴隷貿易を抑え込むよう政府に圧力を掛けた。この組織は今日でも反奴隷制度インタナショナルとして継続している。

フランス
 他の「新世界」植民地では、大西洋貿易によってフランス植民地のサトウキビ・プランテーションに労働力を供給していた。フランス領西インド諸島には、現在の呼び方で、アンギラ(短期間)、アンティグア・バーブーダ(短期間)、ドミニカ国、ドミニカ共和国、グレナダ、ハイチ、モントセラト(短期間)、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、シント・ユースタティウス島(短期間)、セントクリストファー・ネイビス(ネイビス島を除く)、トリニダード・トバゴ(トバゴ島のみ)、セント・クロイ島(短期間)、および現在のフランス海外県であるマルティニークとグアドループ(サン・マルタン島の北半分とサン・バルテルミー島を含む)が含まれていた。
 奴隷貿易はルイ14世の黒人法 (Code Noir) によって規制されていた。奴隷制度は1791年のトゥーサン・ルーヴェルチュールによるハイチ革命後に初めて廃止された。反乱軍は1794年2月4日にフランス第一共和政 (1792-1804)に奴隷制度の廃止を要求した。アンリ・グレゴワールと、ジャック・ピエール・ブリッソーが指導する「黒人の友の会」(Societe des Amis des Noirs)が奴隷制度廃止運動の一部を担い、フランス本土における反奴隷制度感情を作り上げる重要な基盤を築いた。法律の第一条はフランス植民地における「奴隷制度は廃止する」としていたが、第二条は奴隷の対価に応じて「奴隷所有者は補償される」とされていた。
 しかし、ナポレオンは第一執政となった後に奴隷制度を復活させ、これを強いるために軍政府長官と軍隊を派遣した。1802年5月10日、グアドループでデルグレ大佐がナポレオンの代理人リシェパンス将軍に対して反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、奴隷制度が再構築された。この事件に関する情報がハイチに伝わり、1804年のハイチ独立につながる反乱を起こさせた。1848年4月27日、第二共和制 (1848-52)の下で、ヴィクトル・シェルシャーの緊急命令により、再び奴隷制度は廃止された。国はコロン(白人植民者、クレオール言語のベケ)から奴隷を買い上げ、解放した。
 しかし、ほぼ同じ頃に、フランスはアフリカの植民地化を始め、奴隷に等しい労働条件で鉱山、樹木の伐採およびゴムのプランテーションに人を送り込んだ。
 植民地政策の評価に関する議論が今日でも続いている。2001年5月10日、クリスチャーヌ・トービラの法では、奴隷制度と大西洋奴隷貿易を人道に対する罪だと公式に認めた。5月10日は幾つかの候補の中から奴隷制度の犯罪を認める日に選ばれた。反植民地主義活動家は、アフリカ開放の日(5月25日)も共和国に認められるよう要求している。この法によって奴隷制度の犯罪は認められたが、4年後の2005年2月23日、保守系の国民運動連合 (UMP)による教師と教科書に「特に北アフリカにおけるフランスの統治の積極的な役割を認め認識する」ことを求める法律の成立が、フランス国内でも海外でも大衆の騒乱と歴史修正主義に対する非難を呼んだ。アルジェリアの大統領アブデルアジズ・ブーテフリカは、この法の故に計画されていたフランスとの「友好条約」への署名を拒んだ。有名なマルティニークの作家でネグリチュード (Negritude) 運動の指導者のエメ・セゼールは、UMP指導者のニコラ・サルコジとの会談を拒否し、サルコジのマルティニーク訪問をキャンセルさせた。この議論を呼んだ法律は2006年の初めにジャック・シラクによって撤廃された。

ワラキアとモルダヴィア
 ワラキアとモルダヴィア公国(ルーマニアの地方)において、18世紀中ごろに農奴が解放された(ワラキアは1746年、モルダヴィアは1749年)が、ロマ(しばしばジプシーと呼ばれる)の奴隷化は19世紀の初めまで合法であった。奴隷制度廃止運動は急進的なヨーロッパ寄りで反オスマン帝国の運動と連動し、2つの公国の中で力を得ていった。1843年から1855年にかけて、25万人のロマ奴隷が解放され、その多くはルーマニアを離れて西ヨーロッパや北アメリカに移住した。

アメリカ合衆国
段階的廃止
 「非合法に拘束された自由黒人の救済のための協会」が1775年4月14日にフィラデルフィアで結成されたのが、アメリカで初めての奴隷制度廃止運動団体である。主に奴隷制度に強い宗教的反感を抱いていたクエーカー教徒によって創られた。この協会はアメリカ独立戦争の間にイギリスがフィラデルフィアを占領していた時は活動を止めていた。1784年、ベンジャミン・フランクリンを初代会長に再結成された[2]。ベンジャミン・ラッシュがもう一人の指導者であり、多くのクエーカー教徒もいた。ジョン・ウールマンは1756年にその事業の大半を放り出して、クエーカー教徒と共に奴隷制度に反対する運動に身を捧げた[3] 。奴隷の解放と奴隷制度の廃止を主張する論文で、アメリカ合衆国では最初のものはトマス・ペインによって書かれた。「アメリカにおけるアフリカ人奴隷」と題されたこの論文は、1775年3月8日の「ペンシルバニア・ジャーナル&ウィークリー・アドバイザーに対する追記」、より馴染みのある名前では「ペンシルバニア・マガジン」あるいは「アメリカン・ミュージアム」に掲載された[4]。

北部諸州
 奴隷制度廃止運動はどの州でも奴隷制度を廃止する方向に進行して行った。1804年までに北部の全州は奴隷制度を廃止した。ただし、奴隷の解放については段階的であり、1860年の国勢調査でも「永久奉公」の者が少なからず残っていった。この改革を主唱する主要な組織はキリスト友会(クエーカー)、ペンシルバニア反奴隷制協会およびニューヨーク奴隷解放協会であった。ニューヨーク奴隷解放協会は、権勢ある連邦党政治家ジョン・ジェイとアレクサンダー・ハミルトンおよび民主共和党のアーロン・バーが指導していた。ニューヨーク奴隷解放協会の相当な努力により、ニューヨーク州は1799年に奴隷制度を(段階的に)廃止した。奴隷の数に関しては1863年以前のアメリカの歴史で最大の解放となった。1804年のニュージャージー州における奴隷制度廃止が北部では最後のものになった(これも段階的ではあった)。しかし、1787年の憲法制定会議において、連邦政府が国際的な奴隷貿易を1808年に廃止することを容認する合意が形成されていたが、この頃でも奴隷貿易は続いていた。この時、1798年までに、ジョージア州を除く全ての州が個別に奴隷貿易を廃止するか制限する法律を成立させていた[5]。
 1830年代の初め頃、アメリカ合衆国郵政長官が奴隷制度廃止運動のパンフレットを南部の州に届けさせることを拒否した[6]。北部の教師達は奴隷制度廃止運動のかすかな兆候も南部からは排除されるのではないかと疑い、奴隷制度廃止運動に関わる文学も禁じられたと思った。南部の者達は奴隷制度廃止論者だということを共和党が否定したことを撥ね付け、1859年のジョン・ブラウンによる奴隷蜂起の試みを証拠として、北部の多重の陰謀が血腥い奴隷の反乱を起こそうとしていると指摘した。奴隷制度廃止論者の中には奴隷の反抗を要求した者もいたが、ブラウンのような陰謀が露見したという証拠は無かった[7]。北部でも脅威を感じ、エリック・フォーナーは、「北部の者は良き社会の対極にあるものとして、またその基本的な価値観や利益に対する脅威として奴隷制度を見るようになった」と結論付けた[8]。しかし、多くの保守的な北部人は、突然巨大な数の自由労働者が仕事待ちの人の中に入ってきて、しかも彼らは報酬などなくて働いて来ており、喜んで労賃相場を下げると見られていることに不安を感じていた。

植民地化とリベリアの創設
 19世紀の前半、様々な組織が創られて、黒人をアメリカ合衆国からもっと自由を享受できる場所に移住させることを主唱した。植民地化を推す者がおれば、移民を唱える者もいた。1820年代から1830年代にかけて、アメリカ植民地協会 (A.C.S.)が、アメリカの黒人をアフリカに戻すことで、奴隷制度を廃止する提案の主要な推進者であった。この協会は、このやり方が解放のために好ましいと見ていたヘンリー・クレイやジェームズ・モンローのような著名な指導者を含み、国中の白人から広い支持を得た。しかし、アフリカ系アメリカ人の中に多くの反対者がおり、植民地化はアメリカにおける困難な問題に対して実行可能とも容認できる解決法とも見ていなかった。この計画に対する顕著な反対者はボルティモアの富裕な自由黒人ジェイムズ・フォーテンであった。
 西アフリカの海岸で小さな集落を作る幾つかの試みのあとで、A.C.S.は1821年から1822年にリベリアの植民地を創った。それから40年間にわたって、多くの元奴隷と自由黒人がそこに移住することを支援した。不十分な衛生状態や免疫の欠如などから、疫病が頻発し、移民の多くは直ぐに死んでしまったが、生き残った者は1847年にリベリアの独立を宣言した。しかし、植民地化支援は奴隷制度廃止論者の動きによって、1840年代から1850年代にかけて減衰していった。アメリカ系リベリア人は1980年のクーデターの勃発までリベリアを支配し続けた。

ガリソンと即時の解放
 1830年代に急激な変化が起こった。ウィリアム・ロイド・ガリソンが「即時の解放、段階的成就」を要求した。すなわち、ガリソンは奴隷所有者が即時に悔悟し解放の仕組みを始めることを要求した。1840年以後、「奴隷制廃止論」はガリソンのような立場をとるようになった。これは自由黒人を含むおよそ3千人の人々に導かれたイデオロギー運動であった。奴隷制度廃止運動はクエーカーを含み強い宗教的な基盤があり、1830年代に北部のチャールズ・フィニーによって指導された「第二次大覚醒」の信仰復興論者の情熱で改心した人々がいた。奴隷制度廃止という信条は自由メソジスト教会のような小さな宗派との関係を絶つことに貢献した。
 福音主義者の奴隷制度廃止論者は幾つかの大学を創設した、最も顕著なものはメイン州のベイツ・カレッジとオハイオ州のオベリン大学である。著名な大学であるハーバード大学、イェール大学およびプリンストン大学は一般に奴隷制度廃止に反対していた。しかしその運動はイェール大学のノア・ポーター学長やハーバードのトマス・ヒル学長のような著名な人物を惹き付けた。
 北部で奴隷制度に反対する者は禁酒運動、公的学校、監獄や福祉施設の建設など他の近代化改革運動も支持した。彼らは女性の行動主義の役割については意見が分かれた。
 ローマ・カトリック教会のアイルランドでの指導者ダニエル・オコーネルはイギリス帝国とアメリカにおける奴隷制度廃止を支持した。オコーネルはカトリックの解放(イギリスやアイルランドにおけるローマ・カトリック教徒で市民と政治の障害の除去)を確保する時に指導的な役割を演じ、ガリソンのモデルの一人となった。ガリソンはアメリカの奴隷制度廃止運動にオコーネルを引き込み、オコーネルと黒人運動家のチャールズ・レノックス・レモンドおよび禁酒運動の牧師セオボルド・メイヒューが、アメリカのアイルランド人に廃止運動を支持するよう訴える6万人の署名を集めて請願書を作った。
 それにも拘わらず、オコーネルが創ったアメリカの撤廃協会は奴隷制度賛成の立場を採った。これには幾つかの理由が示唆されてきた。如何なる場合も黒人と仕事を争ってきたアイルランド人はアイルランド人と黒人の自由のために使われる議論が同じであることを嫌った。アイルランド人は「彼らの」自由を守るアメリカ合衆国憲法に忠実であり、奴隷制度廃止論者の基本的に憲法を超越した立場を嫌った。またアイルランド人は奴隷制度廃止論をプロテスタントと認識していた。これに加えて、奴隷所有者はアメリカ国外の白人民族であるアイルランドの自由を躊躇することなく声に出して支持していた。
 急進的なアイルランドの民族主義者は、アイルランドに対するイギリスの支配に対して暴力的な転覆を目論むことにオコーネルが拒否を示したことで、オコーネルと義絶しており、奴隷制度についても多様な見解を持っていた。1853年から1875年までアメリカで過ごしたジョン・ミッチェルは奴隷制度の情熱的な宣伝者であった。彼の3人の息子はアメリカ連合国(南軍)で従軍した。一方で、彼の以前の親しい仲間トマス・フランシス・ミーガーは南北戦争で北軍の准将として仕えた。
 アメリカのカトリック教会はメリーランド州に本部があり、黒人の精神的平等さに対して確たる立場を採ったことや、ローマ教皇グレゴリウス16世の奴隷制度を非難する1839年の大勅書があったにも拘らず、公的な会話でなければ、奴隷所有者の利益を支持し続けた。ニューヨークの主教はオコーネルの請願を偽造と言って非難し、本物であるならば、不当な外国の干渉であるとした。チャールストンの主教はカトリックの伝統が奴隷貿易に反対する一方で、奴隷制度に反対するなにごともしなかったと宣言した。南北戦争の前は、アメリカのどの主教も奴隷制度廃止運動を支持しなかった。戦争が遂行されている間でさえも、奴隷所有者と自由に会話していた。ある歴史家は、典礼主義者教会が罪を犯した人よりも異端者から自分達を隔てていたとしている。またエピスコパル派やルーテル派の中にも同様に奴隷制度を容認する者があったとしている。実際にエピスコパル派の主教は南軍の将軍であった[9]。
 オコーネルの失敗後、アメリカの撤廃教会は潰れた。しかしガリソンの考えを信奉する人々は、ローマ・カトリック教に対するアメリカのプロテスタントの「苦い敵意」にもほとんど屈服することがなかった。奴隷制度反対論者の中には党派の崩壊の中で「ノー・ナッシングズ」(en:Know Nothings)運動に投じる者もいた。しかし、エドムンド・ウィンシーはそれを「キノコの成長」と冷やかし、現実の問題から逃避するものとした。マサチューセッツ州のノー・ナッシング議会がガリソンを称えたが、ガリソンは自由の崇拝に対する基本的な権利を侵害する者として彼らに異を唱え続けた。
 しかし、福音派のプロテスタントであるガリソンやジョン・ブラウンはアメリカ独立宣言を聖書と同じくらい重要なものと見ていた。1854年にガリソンは次のように記した。

 私は、アメリカ独立宣言の中で、自明の真実の一つとして書かれている「あらゆる人は平等に生まれている。人は造り主によってある不可分の権利を授かっている。それらは命であり、自由であり幸福の追求である」ということを信じる。この故に私は奴隷制度廃止論者である。この故に私はあらゆる形の抑圧、その中でも取り分け人を物に変えてしまうことを、義憤と嫌悪で見ざるを得ない。この感覚を大事にしないことは原則的に臆病であろう。私に奴隷制度について耳を閉ざせと言う者は、私が防衛のために口を開くのでなければ、私の信条に対し嘘をつき、私の人間性を貶め、私の心を汚すことを求めるものである。私は嘘つきでも、臆病者でも、さらに偽善者でもない。いかなる党派にも合わせないし、いかなる派閥も満足させない。いかなる憎悪や危機からも逃げないし、いかなる利益も貯めない。いかなる制度も守る必要はないし、いかなる目的も促進はしない。ある者が他の者を奴隷にする権利があると私を説得してみるがいい。私は独立宣言をもはや読まなくなるだろう。自由はあらゆる人の持って生まれた権利ではないと私を説得してみるがいい。顔色や地域がどうあれ、私はそう言う人に燃え尽くす火を与えることだろう。私は自由と奴隷制度を同時に信奉する術を知らない。.[10]

アメリカ合衆国の奴隷制度廃止の動き
詳細は南北戦争の原因を参照
 歴史家のジェイムズ・M・マクファーソンは、その著書「平等への戦い」の中で、奴隷制度廃止運動家を「南北戦争の前に、即時の、無条件に、そしてアメリカ合衆国全国の奴隷制度廃止を訴えた者」と定義している。
 奴隷制度に反対した幾つかのグループ(「非合法に拘束された自由黒人の救済のための協会」など)があったが、合衆国の設立時点で奴隷制度を完全に禁じた州はほとんど無かった。憲法は奴隷制度を調整する条項があったが、どれも奴隷制度という言葉を使っていなかった。
 アメリカの奴隷制度廃止運動はかなり早く始まり、アメリカ合衆国が国家として成立以前のことであった。著名なボストン市民でセイラム魔女裁判の判事の一人でもあったサミュエル・シューワルは、植民地の年季奉公に対抗するものとして完全な奴隷制度が広がることに抗議して、1700年にジョセフの売却を書いた。これは後の合衆国となる地域で最も初期に記録された反奴隷制度論文の印刷物である。
 奴隷制度廃止運動家には、運動が分散した1830年代や1840年代にアメリカ反奴隷制度協会やその付属団体に加わった者達がいた[11]。分散した奴隷制度廃止運動には次のような団体があった。自由党、アメリカおよび海外反奴隷制度協会、アメリカン・ミッショナリー協会および教会反奴隷制度協会である。マクファーソンは南北戦争の前の運動家を3つの型に分けた。

 急進派の即時廃止論から保守派の慎重な反奴隷制度論までのイデオロギー的な多様性において、どこで「奴隷制度廃止」(無条件の解放を要求し、大抵は市民の解放奴隷に対する平等を予測する)が終り、どこで「反奴隷制度」あるいは「自由な土壌」(奴隷の束縛をのみ願い、平等の問題には二面的である)が始まるかを区別するのは難しい。ニューイングランドでは特に、多くの自由土地党員が心では奴隷制度廃止運動家である。大西洋岸中部の州や古北西部ではさらに、政治的な奴隷制度廃止運動家は広いが浅い自由土地の流れの中に運動家としての自己認識を潜ませてしまう傾向にある。
 メリーランドから北の諸州では、1781年から1804年までに奴隷制度を段階的に廃止し始めた。ロードアイランド州は1774年に(バージニア州も独立戦争前にその試みを行ったが、イギリスの枢密院がその法律を否認した)、他の州は1786年までに、ジョージアだけは1798年にというふうに、全ての州が奴隷貿易を廃止するか厳しく制限していた。北部諸州の解放法は、法が成立する前に生まれた奴隷はある年齢に達した時点で解放されるとしたので、いつまでも奴隷でいる者が残っていた。ニュージャージー州では、かなりの数の「永久年季奉公」が1860年の国勢調査に記録された。奴隷制度を完全に廃止した最初の州は1780年のペンシルバニア州であった。
 しかし、南部では奴隷制度がそのまま残り、北部の強い反奴隷制度の立場が高まるに連れて、地域の慣習や社会信条により奴隷制度の執拗な守りに入っていった。反奴隷制度感情は1830年以前に北部の多くの人々に存在し、1840年以後に奴隷制度廃止運動をうるさく求める人に加わっていった。北部の大多数は奴隷制度廃止運動家の極端な立場は拒絶した。たとえばエイブラハム・リンカーンである。実際にリンカーンやスティーブン・ダグラス(1860年の大統領選挙で民主党北部の候補者)、ジョン・C・フレモント(1856年の大統領選挙で共和党の候補者)およびユリシーズ・グラントは、道徳的な呵責もなく、南部の奴隷所有者の娘と結婚した。
 奴隷制度廃止運動は原則として奴隷制度の程度を制限したいというもの以上のことだった。北部人の大半は南部に奴隷制度があることを認識し、憲法が連邦政府にそこへ立ち入ることを許していないことも認識していた。また段階的な解放とその補償という政策に賛成していた。1849年以降、奴隷制度廃止運動家はこれを拒否し即座にあらゆる場所で終わらせることを要求した。ジョン・ブラウンは実際に暴力的な反抗を計画した唯一の運動家だとされているが、デイビッド・ウォーカーがその考えを推進した。活動家の運動は解放されたアフリカ系アメリカ人の活動によって強化された。特に黒人教会は古い聖書の奴隷制度に対する正当化は新約聖書と矛盾しているとした。アフリカ系アメリカ人の活動家とその書いたものは、黒人社会の外では耳を貸してはもらえなかったが、同情的な白人には大きな影響を与え、最も有名となった白人活動家であるガリソンは最も効果的な情報宣伝家でもあった。ガリソンは雄弁な広報担当者を探すように努め、その結果見出した元奴隷のフレデリック・ダグラスは結果的に自分自身の権利において卓越した活動家になった。ダグラスは自分で多くの出版部数を誇った奴隷制度廃止運動家の新聞「ノース・スター」を出版した。
 1850年代早く、アメリカの活動家の運動はアメリカ合衆国憲法の問題について2つの派に分かれた。この問題は1840年代遅くに、ライサンダー・スプーナーによる「奴隷制度の違憲性」の出版の後に提起された。ガリソンやウェンデル・フィリップスに指導されるいわゆるガリソニアンは、公衆の面前で憲法が奴隷制度を規定するものとしてその写しを焼き、その廃止と新しい憲法の制定を要求した。もう一派はライサンダー・スプーナー、ゲリット・スミスそれに最後はフレデリック・ダグラスに指導されて憲法は反奴隷制度の文書だと考えた。自然法に基礎を置く議論と社会契約論の形式を用いてこの派は、憲法の合法的権力の範囲の外に奴隷制度があり、それゆえに廃止されるべきものとした。
 奴隷制度廃止運動はもう一つ、今度は社会階級で分裂した。ロバート・デイル・オーウェンとフランシス・ライトの職人共和主義は、実業家のアーサー・タッパンや福音伝道者の兄弟ルイス・タッパンのようなエリート活動家の政策とは際立った対照にあった。オーウェンとライトは「賃金生活者」と「家財奴隷」との連帯を基本に奴隷制度に反対していたのに対し、ホィッグ党のタッパン兄弟はこの見解を強く拒否し、いかなる意味においても北部の労働者を「奴隷」と性格付けすることに反対した。[12]
 多くのアメリカ人活動家は地下鉄道 (秘密結社)を支持することで奴隷制度に反対する行動的な役割を選んだ。これは合衆国議会により1850年の逃亡奴隷法によって違法とされた。それにも拘らず、ハリエット・タブマン、ヘンリー・ハイランド・ガーネット、アレクサンダー・クラメル、エイモス・ノエ・フリーマンなどの参加者がその仕事を続けた。奴隷制度を打ち壊す戦いで2つの重要な出来事は、オバーリン・ウェリントン救助とジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃であった。
 1863年1月1日の奴隷解放宣言後に、活動家は奴隷状態に残ったままの奴隷の自由と黒人の生活状態の改善を追及した。1865年のアメリカ合衆国憲法修正第十三条の成立が公式に奴隷制度を終わらせた。

各国の奴隷制度が廃止された年代
各国の奴隷制度が廃止された年代を下記に記す。
* 日本:1587年、豊臣秀吉は奴隷貿易の全廃を命じた。その後継者、徳川家康も奴隷制度廃止を継続した.
* ポルトガル:1761年、ポルトガル本国とポルトガル領インドで廃止(アフリカの植民地は1836年)
* スウェーデン、フィンランドを含む:1335年廃止(「キリスト教徒の両親によって生まれた奴隷」(事実上、本土では全員)。サン・バルテルミー島植民地では1813年。国によって自由を買われた奴隷は1847年)
* イングランドおよびウェールズ:サマーセット事件の結果として1772年廃止。法的な拘束力は限られていた。
* スコットランド:ウェダーバーン事件の結果として1776年廃止[13]。
* バーモント州:アメリカ独立戦争中に造られたバーモント共和国が1777年7月8日に廃止。
* ハイチ:50万人近い奴隷の反乱の結果、1791年廃止。
* アッパー・カナダ:1793年、反奴隷制度法で廃止(この法は奴隷を解放はせず、その時の奴隷の子が25歳になれば自由になるとした)。
* フランス(1回目):1794年-1802年廃止。全ての植民地を含む(ただし、イギリスに占領されていた植民地では廃止されなかった)
* ローワー・カナダ:1803年廃止。首席判事であったウィリアム・オズグッドが奴隷制度はイギリスの法では成立しないと声明。これで多くの奴隷が解放されたが、イギリス帝国が廃止した1834年まで奴隷状態で残った者もいた)
* チリ:1811年部分的廃止、1823年、奴隷状態で残っていた全部と「チリの国土で奴隷とされた者すべて」。
* アルゼンチン:1813年廃止
* グラン・コロンビア(エクアドル、コロンビア、パナマおよびベネズエラ):1821年段階的廃止(コロンビアは1853年、ベネズエラは1854年)
* 中央アメリカ連邦共和国(今日のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアおよびコスタリカ):1824年廃止
* メキシコ:1829年廃止
* イギリス帝国:1833年廃止、全ての植民地を含む(1834年8月1日から有効。東インドでは1838年8月1日。奴隷制度はイングランドで1772年に違法とされた。1807年奴隷貿易が廃止され帝国海軍はそれを監視する任務を負った。これはイギリス人が当事者でなくでも同じだった。
* モーリシャス:1835年2月1日、イギリス政府による。この日は祝日となっている。
* デンマーク:1848年廃止、全ての植民地を含む
* フランス(2回目):1848年廃止、全ての植民地を含む
* ペルー:1851年廃止
* モルダビア:1855年廃止
* ワラキア: 1856年廃止
* ロシア:1861年農奴解放、アレクサンドル2世の時2千万人を解放。
* オランダ:1863年廃止、全ての植民地を含む。しかし1940年までアフリカからの年季奉公は存続。
* アメリカ合衆国:1865年廃止、南北戦争後(1777年から1864年の間に廃止した州もある)
* プエルトリコ:1873年廃止、およびキューバ:1880年廃止(どちらも当時はスペイン領)
* オスマン帝国:1876年廃止。1908年まで女性の奴隷が売買された[14] 。
* ブラジル:1888年廃止。アメリカ大陸では最後[15]。王女イザベル・デ・ブラガンサがブラジル帝国内に存在するすべての形態の奴隷制度を廃止。
* 韓国:1894年廃止(世襲奴隷は1886年に終了)
* マダガスカル:1896年廃止
* ザンジバル:1897年廃止(奴隷貿易は1873年廃止)
* 中国:1910年廃止
* ネパール:1921年廃止
* スーダン:公式には1924年廃止、実際には今日も継続[16]
* イラン:1928年廃止
* ミャンマー:1929年廃止
* モロッコ:1930年代に奴隷制度を禁止[17]
* エチオピア:1936年廃止、イタリアの占領軍による。第二次世界大戦中の1942年にエチオピアが独立を回復した後、皇帝ハイレ・セラシエは奴隷制度を復活させなかった。
* カタール:1952年廃止
* チベット:1959年廃止、中華人民共和国の命令による
* サウジアラビア:1962年廃止
* イエメン:1962年廃止
* アラブ首長国連邦:1963年廃止
* オマーン:1970年廃止
* モーリタニア:1980年7月(1905年にフランスにより公式に廃止。暗黙のうちに1961年の新憲法で、およびその年の10月に国際連合加入の時に表明、現実には存在。2007年8月に犯罪となった。
* ニジェール:2003年廃止。フランスの植民地時代に奴隷市場は閉鎖されたが、2003年に奴隷制度が違法となった[18]。


---[噂]野中広務---
Wikipedia
最終更新 2009年1月24日 (土) 10:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)
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 野中 広務(のなか ひろむ、1925年(大正14年)10月20日 - )は、日本の政治家。日中友好協会顧問。日本行政書士政治連盟最高顧問。平安女学院大学客員教授。社会福祉法人京都太陽の園理事長
 衆議院議員(7期)、内閣官房長官、自治大臣、国家公安委員長、自由民主党幹事長を歴任。

経歴
生い立ち
 京都府船井郡園部町(現南丹市園部町)出身。旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、大阪鉄道局の職員として採用され大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。大阪鉄道局長だった佐藤栄作(後の首相)と知り合った[1]。

地方政治
 青年団活動に身を投じ、同じく各地の青年団運動を行っていた竹下登(後の首相)、浜田幸一らと活動を通じて知り合う[2]。 衆院議員・田中好の秘書、園部町議会議員(3期)、園部町長(2期)、京都府議会議員(3期)を務める。京都府議の12年間は野党議員として与党共産党の蜷川虎三革新府政と対峙した[3]。
 7期28年間の革新府政の蜷川虎三知事引退によって、1978年に革新から府政を奪還した林田悠紀夫知事の下で京都府副知事を荒巻禎一(後、林田の後任の京都府知事)との府初の二人制で務める。
 副知事時代の功績の一つに第三セクターによる産業廃棄物処理施設の建設がある。近年の環境省は不法投棄や不適正処理等の対策として産業廃棄物処理への公共関与の強化を進めているが、既に野中は20余年前に行っていた。後に「地球のバランス」と称した環境問題に関する文章を著している。

社会福祉施設の運営
 1958年、京都市の重度身体障害者グループが「寝たきり障害者に愛のホームを!」と声をあげたことから、日本で最初の重度障害者療護養施設が野中の地元である園部町に設置された[4]。施設を訪れた野中は入園者が働く場所を設ける必要性を感じ、作業所、重度障害者授産施設を備えた社会福祉法人を設立した。その後、先行して設立されていた重度障害者療護施設の運営依頼も受け、自ら設立した社会福祉法人「京都太陽の園」に統合、理事長として両施設を運営することになった。野中は当初、京都府副知事を退任後は政界を引退して、この社会福祉法人の運営に専念するつもりだった。なお、2008年現在も野中は理事長として法人運営を行っている。

中央政界へ進出
 1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において、2議席を自民党の谷垣禎一候補、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリストになる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に谷垣、有田両候補にリードを許し始めた。谷垣候補が当確し、続いて有田候補が勝利宣言、野中は敗北宣言の準備を始めた。しかし、野中の地元・園部町で未開票の投票箱の存在が判明して、有田候補を逆転し初当選を果たした。野中が一度は敗北を覚悟した選挙結果に、京都府議時代から目をかけていた田中角栄元首相が自民党京都府連会長上田稔参議院議員(後の環境庁長官)に対して激怒したという。

国政への関与
 自治大臣・国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任。自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、特定郵便局長会に強い影響力を持ったほか、地方自治の長い経験や自治相経験から、自治省(後の総務省)にも影響力を持っていた。
 金丸信の不祥事スキャンダルによる議員辞職に端を発した竹下派(平成研究会)分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として名を知られるようになった。また、細川内閣発足によって自民党が下野したとき、京都府議時代の長期にわたる野党経験を生かした質問を行って、党内で実力を認められるようになった。特筆すべきは昭和45年2月10日付けで国税庁長官から全国の税務署長あてに通達による『同和控除』である。この税の優遇措置がエセ同和団体に悪用されていることを衆議院予算委員会で追究した(これは後に野中が自治大臣になったときに、部落解放同盟上杉佐一郎委員長と交渉を行い、国税庁も解消の通達を行うこととなる)。
 1994年に自社さ連立による村山内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣。 1995年、オウム真理教によるテロ事件に破壊活動防止法を適用することを強硬に主張した。また、松本サリン事件で被疑者と疑われた通報者の河野義行に対して国家公安委員長として真っ先に謝罪に訪れた(長野県警は、現在に至るまで河野に謝罪していない)。村山首相は公安調査庁に破防法適用申請を認めたものの、公安審査委員会の審議により否決された。
 1996年の橋本内閣では、小沢一郎率いる新進党と連携を図ろうとする梶山静六官房長官ら「保保大連合」派と対立する「自社さ」派の中心メンバーとして、加藤紘一幹事長を支えた。1996年の総選挙後は幹事長代理として加藤幹事長と組んで、新進党からの議員を引き抜いて自民単独過半数を回復させ、新進党解散の一因を作った。
 1997年、沖縄県の米軍基地用地の確保を続けるため、橋本内閣は米軍用地特別措置法改正案を出し、野中は衆議院で改正案の特別委員長を務めた。法案の委員会通過後、4月11日に野中は委員会報告を行ったが、報告の最後に

「私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」

と付け加え、物議を醸した。法案は保保連合によって圧倒的多数で可決される見込みとなっていたため、保保連合を牽制したためとも、(立場上反対はできないが)純粋に性急な成立を危惧したためともいわれている[要出典]。この発言は、新進党の要求により、国会会議録から消されている。なお、法案は同日の衆議院通過後、4月17日に参議院で可決成立した。
 1998年第18回参議院議員通常選挙大敗で橋本首相が退陣すると、後継の小渕内閣で官房長官を務めた。小渕恵三総理は、官房長官を固辞する野中に土下座をしてまで就任を頼んだという[5]。小渕内閣では一転して自自公連立を推進した。官房長官在任中は広島県内の校長が卒業式での日の丸掲揚の対立を巡り自殺したのを機に国旗及び国歌に関する法律を策定、社民党などの猛反対や党内の慎重論を押し切り成立させるなど、ハト派らしからぬ一面も見せている。
 1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には内閣官房長官として事故対応の指揮を執った。総理官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか!現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と激怒し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。これは野中自身が後にこの臨界事故について聞かれたときに語っている。
 2000年に小渕首相が倒れると、森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。この協議は、首相を五人組によって密室で選出させたたものとして、野党から厳しく追及され、国民からも大きく批判された。野中は、森の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格した。国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫民主党代表に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した。
 同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。その直後、野中は幹事長を辞任、後任に古賀が就任した。この頃、小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたこともあった。
 森首相退任に伴う2001年自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀、鈴木宗男らや公明党から待望論が挙がるも、橋本龍太郎や村岡兼造ら派幹部からその突出振りを疎まれていたため支持が集まらず、結局橋本を担ぐことになる。橋本派は業界団体との強いパイプなどから圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。なお、野中は総裁選中に「橋本政権樹立後は三役に留任してもらう」と主流派の取り込みを図ったが、党内外で猛烈な反発にあった。
 2003年自民党総裁選で、主戦論を唱え、青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、新藤義孝外務大臣政務官、村岡兼造元官房長官、大村秀章内閣政務官らと激しく対立し、一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した(余談ながら「毒まんじゅう」はこの年の流行語大賞に選出され、本人が授賞式に出席した)。野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に望んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。

政界引退後
 2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を『非情の政治』と批判を行った。また、自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。
 2004年に、日歯連闇献金事件が発覚したが、野中は橋本らと共に1億円の小切手を受け取る現場に居合わせたことを否定。東京地検も政治資金規正法違反で捜査していたが、関与しているが積極的でないとして起訴猶予となった。これについて検察審査会(検察審査会は事件の当事者ではなく、その案件を扱う検察官の独立性の成否を扱う機関)」で不起訴は不当であるとする議決を行った。
 2005年の第44回衆議院議員総選挙では、かつて選挙区(京都府第4区)で後継者指名をした田中英夫(前亀岡市長)が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民党から公認を得られず無所属で出馬。刺客として自民公認で出馬した中川泰宏元船井郡八木町長に敗れた。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、北桑田郡・船井郡の市町村合併から意見の齟齬が見られるようになった。さらに、中川が、2002年の京都府知事選に笹野貞子元民主党副代表の応援を受けて立候補・落選して以来、野中との対立が決定的なものとなった。
 亀井静香、藤井孝男、野田聖子、古賀誠、小林興起らかつての反小泉の勢力も落選・非公認・離党などで権力抗争から外れていったため、彼らを支援していた野中の影響力も次第に低下していた。小泉の後継者である安倍晋三が総理大臣を辞職すると、古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新五人組)の一人とも言われている。古賀が自民党選対委員長に就任したこともあり、低下していた野中の影響力に変化が生じている。

教育界
 2006年10月より平安女学院大学客員教授として政治学を中心とした教育、研究活動をおこなっている。

人物
「弱者」に対する配慮
 松本サリン事件の被害者でありながら被疑者扱いされた河野義行に対して「人間として政治家として心から申し訳なくお詫びしたい」と謝罪したことや、重度身体障害者療養施設や重度身体障害者授産施設を自ら設立・運営していることなどによる。松本サリン事件で重度の後遺症を持つことになった河野の妻を自ら運営する施設に受け入れる意思があることも話した。しかし、河野は仕事の関係で長野県から移動できないため、野中の施設の管理者が長野県内の施設を紹介した。
 佐高信は、魚住昭『野中広務 差別と権力』の解説で、『ハンセン病訴訟の元患者や弁護団が最も頼りにしたのが実は野中であり、官房長官時代に原告や弁護団に会い、国の責任を事実上認めた野中に、彼らは「痛みのなかに身体をおけるひと」と賛辞を惜しまないという』と書いた。事実、野中が政界から引退を表明した直後、ハンセン病訴訟全国原告団協議の会長、会長代理、副会長及び事務局長、全国ハンセン病療養所入所者協議会長の連名で「議員引退の撤回を求める緊急要請書」が野中に届けられた。
 野中の父は保護司を務め、戦災孤児の収容施設「園部寮」の運営に深く関わっていた。野中の自著『私は闘う』の解説で、後藤謙次は、社会的弱者に注がれる野中の視線は暖かく、そして「弱者に対する眼差し」は決して同情からではなく、生まれ育った環境の中で辛さ苦しみを共有する中で芽生え体に染み付いたものと書いている。
 野中は京都府議会議員、京都府副知事時代に被差別部落出身であることを話したことがあった。しかし、地方政治家時代から部落解放同盟などとは一線を画しており、京都府議時代には蜷川府政の同和対策事業と部落解放同盟を「一般の人が理解をするものでなければ、新しい差別を呼び起こす」と厳しく批判している。また、京都府副知事時代には部落解放同盟幹部のいる席で「部落問題をダシにして利権あさりをしたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続ける限り、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります」と発言したこともある。

麻生太郎への批判
批判内容
* 魚住昭『野中広務 差別と権力』[6][7]によると、野中は麻生太郎が過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、麻生を激しく批判した。
 「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会[8]の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが政党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。

- 魚住昭『野中広務 差別と権力』
* NPO法人・多民族共生人権教育センターの第6回2005年度総会で記念講演『いま、日本を憂う』を行った野中は、麻生による差別発言を事実と語っている[9]。また、2006年12月13日、シンポジウム『今こそ部落問題を語る-特別措置法の功罪について考える-[10]』にて、講師として招聘された野中が、麻生の差別的発言について語った。それによると、麻生が大勇会の会合で「野中のような部落出身者を日本の総理にしていいのか」と発言し、野中は大勇会会員3名からその発言内容を確認したという。
* 2008年8月24日、TBSのテレビ番組『時事放談』で「日本の不幸だと思っている。私個人としても、麻生総裁になったら、私は生命を賭けて国民に分かるようにしますよ」と発言している。また、同年9月29日、同じくTBSのニュース番組『NEWS23』のインタビューで麻生首相の所信表明演説を厳しく批判し、同首相について「天敵ですよ。天敵です」と答えた。

麻生太郎サイドの見解
* 2005年2月22日、衆議院総務委員会で、衆議院議員中村哲治が麻生に対し発言の真偽を質したが、麻生は「大勇会の席でその種の発言をしたことはありません」と答弁し、部落差別発言を行ったことはないと主張している。また、「総務大臣に予定されていると言われましたけれども、前の日に自分が何大臣になるかということを知っていた大臣はゼロです」「下を向いて赤くなりもしませんでしたから」と答え、『野中広務差別と権力』における野中の発言についての記述内容が事実と異なることを指摘している。なお、大勇会での麻生の一連の発言があったという、総務会における野中の発言については「その発言があったことも記憶をいたしておりますし、その種の発言があったことも、現場におりましたのでよく知っております」と麻生は答弁している[11]。
* また、麻生事務所は「地元・福岡の炭坑に絡む被差別部落問題についての発言が誤解されて伝わったものだ」と説明しており[6]、週刊現代の取材に対し「衆議院総務委員会で説明しており、それ以上のコメントはない」と回答している。この回答を受けた週刊現代の取材に対し、野中は「事実無根だなんて。その会議(=差別的発言があったとされる大勇会の会合)におった人間が言ってますよ。河野さん(=河野洋平)も言っているし。何人も聞いていることだから、私は言うてる」と発言した[12]。
* 藤本順一は、この問題には森喜朗内閣の退陣後における橋本派内の内部抗争が絡んでおり、麻生を総理に担ごうとした動きに反対する勢力が石炭六法の廃止に伴う麻生の発言[13]を曲解して流布したことが原因で発生したとしている[14]。しかし、上杉隆によると、藤本は麻生の著書『とてつもない日本』の編集にかかわり、麻生と同じ福岡・筑豊の出身、麻生選対のあった「ホテルオークラ東京」のペントハウスで連日取材をしていた政治ジャーナリストだという[15]。

第三者による見解
* 2004年9月16日全国地域人権運動総連合は根拠を示した上での弁明ではなく、差別発言が事実である可能性がきわめて高いとして、真相究明と責任を問う申し入れを麻生太郎に対して行った。また、この申し入れでは、発言が事実でないのであれば、野中や魚住、講談社などを訴えるべきであるとしているが、麻生側から納得のいく回答は得られておらず、「2004年の段階で(麻生を)国会議員としての資格なしと判断している[16][17]。
* 奈良県部落解放同盟支部連合会も民主党奈良県連に(小泉内閣)閣僚差別発言への事実究明を行うよう要望書を提出している[18]。
* 2009年、ニューヨーク・タイムズ紙のノリミツ・オオニシ記者は、麻生の発言に同席した人物として亀井久興の名前を実名で挙げたが、発言自体は英訳のこともあり抽象的になっている。--「“Are we really going to let those people take over the leadership of Japan?” Mr. Aso said, according to Hisaoki Kamei, a politician who attended the meeting.」(By NORIMITSU ONISHI Published: January 15, 2009 )

朝鮮半島
 野中の地元でもある京都府中部にはマンガンを始めとする多くの鉱山[19]があった。そこでは、朝鮮半島出身の労働者[20]が働いていた。野中の実家は、鉱山から逃げてきた朝鮮人労働者をかくまっていたという。また、少年時代の野中の子守をしたのは、朝鮮人女性だった。野中は「朝鮮半島から連れて来られた人たちが虐待を受けた姿を何度も見てきた。僕には大へんひどい目にあわせたという罪悪感がある。そういうものを我々が生きとる間に払拭して、朝鮮半島との信頼関係をつくっておきたいんや」と語っている[21][22]。

アジア外交
北朝鮮
 野中は中選挙区時代、北朝鮮からの入港隻数が国内最多であり、主要貿易相手国とする舞鶴港のある舞鶴市を含む旧京都2区を選挙区としていた。したがって、舞鶴市の経済発展を鑑みると北朝鮮との関係改善が必要であった。事実、特定船舶入港禁止法に基づく北朝鮮籍の船舶入港禁止において、舞鶴市を中心とする周辺地区に経済的影響があるのではないかと心配する声もあったため、京都府や舞鶴市、舞鶴市商工会議所等によって緊急対策会議が開催された[23]。
 1990年、金丸訪朝団(自民党団長金丸信、日本社会党団長田辺誠のほか、石井一、武村正義などの議員が参加。野中自身によると「四回生議員の平社員」として参加)の一員として北朝鮮を初めて訪問。逓信委員会に所属していたため、日本と北朝鮮間の通信網の整備、IAEAの核査察を北朝鮮が受け入れることの要求を担当した。この金丸訪朝団における交渉では、北朝鮮による日本人拉致問題を全く取り上げられておらず、この時点における北朝鮮に対する見方を「まだ非常に甘かった」と認め、また、1988年当時の梶山静六自治大臣・国家公安委員長が日本共産党の橋本敦参議院議員の質問に対して「北朝鮮の拉致の声が濃厚」と政府内の指摘があったにも関わらず、早期に触れることができなかったことを残念であるとしている。
 1997年11月、森訪朝団(森喜朗団長のほか中山正暉、関根則之、小野清子以上自民党。伊藤茂、大脇雅子、田英夫以上社民党。新党さきがけ・堂本暁子)の一員として訪朝。北朝鮮側は「拉致などありえない」、「拉致があるとすれば南(韓国)じゃないか。金大中大統領は、まさしく日本から拉致されたんじゃないか。だからあなた方は同じ朝鮮半島で、南のトップが拉致されているのに、何をもって証拠にわれわれに言うんだ」と主張した。その夜、野中は盗聴をされているのをおりこみ済みで、百花園迎賓館で
 「おい、こんな国、もう二度と来ないぞ。俺は今日まで、金丸さんの気持ちを継いで、何とか近くて近い関係にしたいと思って努力をして、日本ではいろんなことを言われながら、まあ、自分で傷つき、家族に迷惑かけてきたけれども、もうこんな誠意のない国、二度と来ん」
と話した。翌朝午前6時、朝鮮労働党アジア太平洋委員会の宋浩京が野中を訪れ、「拉致問題は、拉致では受け入れられない。行方不明者という呼び方で拉致7件10名の名簿を預かって、朝鮮赤十字会での調査」を提案してきたため、森及び外務省の槙田邦彦審議官と相談を行い、槙田審議官が「行方不明でも結構です。拉致事件についてとにかく調査しようと足がかりできたら大きな収穫です」と野中に話した。

北朝鮮に関連する発言
*「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが、(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。壁を破ってでも食糧援助をすべきだと思って環境整備をしている」[24]。
* 「隣国が困っているのに援助せず、心を通わせないで、拉致疑惑をはじめとする問題が解決するか」[25]。
* 2000年3月、島根県での講演において、北朝鮮へのコメ支援に反対して拉致被害者家族が自民党前に座り込みをした事に対して「日本人の拉致問題を解決しないでコメ支援はけしからんと言うが、日本国内で一生懸命吠えていても横田めぐみさんは返ってこない」

中国に関連する発言
* 野中は2008年4月17日、中国共産党中央対外連絡部部長王家瑞との会談の席でチベット問題に触れて「胡錦濤総書記をはじめ、中国政府の指導者は日本との関係発展を非常に重視している。チベット問題は中国の内政であり、われわれはこの問題を利用した オリンピック大会のボイコットと破壊に反対する」と発言している[26]。
* 2008年12月13日、東京都内で市民団体が開催した「南京事件71 周年集会」で、野中は1971年に後援会の人々と南京を訪れた際、日本軍兵士だったという1人が「女子供を百数十人も殺した」と告白したエピソードを紹介。野中は「非人間的な事態があったことを知ることができた」とし「国の将来を思う時、歴史に忠実でなければならない」と主張した[27]。

「叩き上げ」から「影の総理」へ
 野中は国会議員としては遅咲きであったため当選回数でいうと村岡らの橋本派の他の幹部と比較して少ない。将来を期待している古賀誠も同数であるが、初当選が補選であったために、野中のほうが国会議員歴が実質短い。それだけに原則的に年功序列であったかつての自民党において野中がいかに際だった「叩き上げ」だったかがわかる。また、古賀を含めて亀井静香、鈴木宗男など協力関係にあった人物にも「叩き上げ」が多い。
 京都府内の各界に対する影響力が大きい。ただし、選挙区内であった亀岡市、南丹市などでは交通や下水道などの生活基盤整備は進んでおらず、むしろ遅れていることから決して地元利益誘導型の政治家でないとする考え方もある。[要出典]
 自民党幹事長代理として仕えた加藤紘一幹事長に心酔し、小渕政権で加藤が反主流化するまで「加藤を総理にする」との姿勢を示していたことから、野中の突出を快く思わない党幹部から「野中はキングメーカーまで狙っている」と批判された。
 「士志の会」を主宰する古賀誠とは同期当選ながら師弟関係にある。また、2度総裁選に出馬している亀井静香、鈴木宗男、茂木敏充、野田聖子、さらに麻生太郎を親しく期待していた。


---[噂]部落問題---
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部落問題(ぶらくもんだい)は、日本における差別問題のひとつである。江戸時代の穢多や非人など賎民身分を由来とする。居住地域が限定され、被差別身分化は罪人に対する刑罰のひとつでもあった。現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。

部落
 「部落」は本来「集落」の意味である。歴史的にエタ村あるいはエタと称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などとよび定着した。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味をもたない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。
 近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった [1]。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、近年は「同和行政」という語に由来して「同和」が使われる事もある。

旧身分
 近世起源説では「徳川政権が大多数の農民を支配するために、宗教的理由で忌避されていた食肉皮革産業や廃棄物処理、風俗業界、刑吏等の賎民を身分支配のため固定化し、代わりに独占権益を与えたことに始まる」としている。ただし「士農工商穢多非人」といった序列付けについては近年否定する説もある。[2]。
 なお、「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差がみられる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独若しくは少数で暮らしている場合もある[3]。
 なお、江戸時代は社会が安定し、貧困による餓死が都市部で少なくなった。これには、農村部からの人口流入が抑えられたことと、もう一つは流民を規制の緩やかなエタ村に限定して収容した側面がある。そのような部落を小規模経済で運用させることよって都市のスラム化を防いでいたと見る向きもある。

歴史
起源
 被差別部落の起源については諸説が存在し、未だ意見の統一を見ていない。
 政府が同和対策に取り組み出した1960年代からおおよそ1980年代の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえたうえでその起源についての考証が行われている。
 身分制度は社会的地位であり、本来血統とは違っていた。江戸時代以前にも当然存在したが、江戸幕府による政権安定化のための身分世襲化が進んだ。身分制度は儒教的な思想の影響を受け、社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。なお、「士農工商」と呼ばれる4身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在していた。また、最近の研究では「老若男女」のように「みんな」という意味であり、「士農工商」の順序に特に意味はないとする説が強くなっている[4]。

被差別階層
 部落問題において被差別者とされるのは、被差別部落[5]に現在住んでいる、またはかつて住んでいたことがある、血筋が穢多、非人身分にあった人とつながっている、など密接な関係があると周囲の人に考えられている、あるいは自分でそう自覚しているが故に、「部落民」と看做されて現実に忌避・排除の対象となる、あるいはその可能性を潜在的にもっている人々である[6]。その意味において、現在の部落差別を語る際、前近代社会の賤民身分の歴史から説き起こすのが通例となっている。
 「穢多」は鎌倉時代末期の文献にも登場している。かつては寺社の雑役や死んだ牛馬の処理に携わる職業を指していたが、後に皮革産業や刑吏を役とする身分を指すようになった。室町時代から戦国時代にかけての資料には「かわた」と自称・他称されていて、江戸時代初期までこれは継続して見られる。しかし、中世の「穢多」と近世の「穢多」を単純な系譜論で同一視することは異議が多い。太閤検地以降の村の自立と年貢の村請制度が確立していく中で、「かわた」百姓の村は「本村―枝村」構造に組み込まれ、政治的地縁的には抑圧された。地域経済や民俗の中で、中世由来の「旦那場」に依拠して「斃れ牛馬の処理」の請負や祭礼における様々な役負担に山番や森番に警察役を負担した。それらはやがて「権利」に転換し、その経済と行動が一般農村とは違う側面を当初から有したために慣習など文化的な「辺境」に追いやられた。やがて小農自立期に入り、中世的な惣村や庄や郷の結合が薄れていくと、その役や慣習の違いから穢多と呼称され身分差別が常態化していくことになった。彼らの帰依する宗派は、関西では概ね浄土真宗本願寺派が多いが、尾張以東ではこの傾向は薄れるし必ずしもそうであるとはいえない。ただ、近年の研究では農村と「かわた」村が分流する以前に本願寺との関係は形成されていたようで、純粋で熱心な真宗門徒であるという側面からの解析も必要となっている。
 「非人」は語源は仏教に関わる言葉で「人でないものが人の姿形をかりて現れたもの」の意味であったが、刑吏とその管理下の罪人・病者・乞食や寺社に仕える者など当時の社会の律令外の職能民を指す言葉として平安時代に普及したようである。中世には蓬髪・顎鬚・童姿等のものやハンセン病者及びその世話をするものを意味していた。清水坂非人と奈良坂非人は歴史資料に現れる代表的存在である。江戸時代では三都においては、特定の職種や役を負担する人々に都市流入の無宿者さらには特定の犯罪経験者を指し、組織化された。この「非人」身分は町人身分から落とされたりまた「非人」身分から脱することも可能であった。また地方の藩においては「非人」名義で「かわた」身分の役を行うものもあり、その呼び名と身分関係は必ずしも統一的に把握されるものではない。「穢多」と「非人」は身分の高低というよりも、その定義の範疇が違う概念である。
 幕藩体制が揺らぐ江戸時代中期になると、百姓・町人統制を強化する藩も多くなった。こうした中で穢多に対して徹底的な法規制を行うこともあったが、これは百姓・町人との分断をすることによって百姓・町人の不満を逸らす目的だとみられている。例えば、岡山藩では穢多は皮で作った名札を胸に付けることなどが義務付けられた。しかし、これに対して岡山藩全域の穢多が反発し「渋染一揆」が発生している。神道思想においても平田篤胤「能く思へば夫も即神の御心で、かの旃陀羅を御悪ひ遊ばす」(『神敵二宗論』)として、「旃陀羅」すなわち穢多を排撃している。一方で、加賀藩の侍講の千秋藤篤のように人権を尊重して部落解放を主張した例などもわずかにある。
 関東では全ての穢多は矢野弾左衛門の管理下に入っていた。穢多頭の弾左衛門は徳川家康により穢多を統制する権利を与えられており、金貸しもしていた。強大な財力を持ち、刀を差して旗本並の屋敷で生活をしていた。13代当主は幕末から明治にかけて穢多を代表し、穢多身分者に対する利益誘導を精力的に行った。佐幕派に対する資金援助も弾左衛門の活動として知られるものである。弾左衛門はこの功績が幕府に認められ、幕府瓦解直前の1868年(慶応4年)1月、配下の65名とともに、身分を引き上げられ、弾内記(後、弾直樹)と名を改めた。
 江戸時代の身分制度を表現する言葉として近年に「士農工商穢多非人」という言葉が使われるようになったが、最近の研究では、儒者が儒学のイデオロギーではそうなると主張しただけで、この並びにも徳川時代のありよう(徳川政権が封建主義国家、各大名の領地はそれぞれが一応は独立国)から、雑多な身分を理解するうえでは正確ではない。「穢多」は終生「穢多」とされる反面、「非人」は一時的な身分であり、許されて元の身分に戻りうることから、「穢多」と「非人」がどちらが身分として上であるかを争った事例も存在しており、「士農工商」に属さない身分(主に徳川時代以前から権威を持っていた身分)も存在したからである。また、江戸中期以降経済社会が発展すると、行政官としてのみ存在する武士と、富裕層の商人、極貧の大多数の農民、など身分崩壊ともいえる状態が始まり、エタ頭と呼ばれる人々は、その経済的背景から力を持ったことも事実であり、絶えず「士農工商」の下という位置づけではなく、弾左衛門のように、あえて言えば「横」・「外」のような関係といえる。
 このような研究の深化によって脇田修などが提唱する「周縁的身分論」による身分差別の把握という近世史研究の視点がある。葬儀埋葬にかかわる三昧聖や築城作庭土木業者、石切・大工から、鳥追いや願人坊主などの芸能民や陰陽師、神官、僧侶、医師など、大雑把であるが地域共同体との結合よりも職縁による結合が強い人々は、地域社会からは絶えず賎視の対象となる可能性をはらんでいた。一部の地域では、医業は宗教と未分化であり「藪医者」という蔑視は、分化した「医業」が成立していく中で「野巫(やふ)」という民間医師が相対的に「被差別身分」化していくことを示す。一方でその「被差別身分」の中に優秀な馬医者や牛医者が存在したことも確認されている。
 さらに、農業・手工業・商業を担う者が常に農工商(百姓・町人)に属していたということはない。武士が内職で手工業者となっていた事例と同様に、「穢多」「非人」にも農業・手工業・商業に携わっていた者が多くいた。中でも武士に直属する皮革加工業は「穢多」の特権的職種とされていた地域が多かった。また地域によっては藍染職人や織機の部品を作る職人が「穢多」「非人」の職業とされていたことも知られている。また、ほとんど農業によって生計を立てていた地域も知られている。このように、職種の区分と思われているものは身分制度という制度上の区分に過ぎず、実態を表していたものではない。

身分制度の廃止
 1869年の版籍奉還により武士の身分が廃止されたのを受け、士農工商と呼ばれた身分制度は廃止され一律に平民と呼ばれた。また1871年(明治4年)に明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命をなしとげた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。
 そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というのも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった[7]。
 解放令によって法的な地位においては身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚であった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。
 また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。
 差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。
 また、1896年(明治30年)歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う男だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者福地桜痴が欧米の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。

水平社運動
 このような状況を改善するためにかつての賤民階層の人々(いわゆる「部落民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・行政闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」する事を怖れ、弾圧と懐柔の両面で相対した。もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。
 国民の融和を目的とし、人権侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した西光万吉、阪本清一郎らが中心となり1922年に全国水平社が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多である事を誇る時が来たのだ。」と宣言した[8]。
 当時は1917年のロシア革命の直後であり、活発化した社会主義運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また自由民権運動との関わりも深かった。激しい水平社の糾弾闘争は当時の人びとによく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に日本共産党に関わりを持った左派を弾圧した。1920年代後半の低迷を経て、1930年代以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。1933年の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せる事もあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、太平洋戦争突入後の1942年に消滅してしまった。
戦後、同胞融和ということばから部落問題を同和問題と呼ぶようになった。

戦前の同和教育開始
 1942年8月に文部省社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、はじめて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。

戦後の同和対策事業
 1951年、在日朝鮮人の生活を差別的に扱った小説「特殊部落」を京都市九条保健所職員が杉山清一の筆名で雑誌『オール・ロマンス』に発表し、問題となった(オールロマンス事件)。設定上の舞台である「特殊部落」は京都市内に実在する被差別部落であるが、登場するのはすべて在日朝鮮人、その「特殊部落」に住んでいれば「部落者」と呼ばれ差別されるが地域を離れればそうでなくなるという、地域の実情や差別の様態とは懸け離れた内容[9]で、地域の住民たちは事実をゆがめて興味本位に書いた差別小説として京都市に対して抗議を行った。京都市役所内部に形成されていた左翼グループはこの問題を部落に対する行政上の措置の不十分さから起きた事件として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された部落解放全国委員会京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた被差別部落の実態を反映したものだ」として行政を批判した。翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した。これ以降、部落差別撤廃のための行政闘争が活発化していった。
 部落解放同盟(部落解放全国委員会から1955年に改称)や全日本同和会(旧融和運動系の活動家が解放同盟から離脱して結成された運動団体、保守系)の働きかけと自民党と日本社会党との間で合意が形成された結果として、1969年に同和対策事業特別措置法が10年間(後に3年間延長)の時限立法で制定された。また、1982年には地域改善対策特別措置法が5年間の時限立法で制定された。このように部落解放同盟を初めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、同和地区のインフラの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。同和地区と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。
 教育や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」と主張されるが、これらの措置はアメリカで女性や黒人、先住民などの雇用や教育に適用されている積極的差別是正措置とも捉えることが出来る。
 一連の同和対策事業の一部は1987年3月31日に新たな時限立法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」などにより延長されたが、2002年にそれらが期限を迎え、国による同和対策関連事業は終了した。

教科書の無償化運動
 1961年、高知県の同和地区の父母が、学習会において日本国憲法を学んでいたが、第26条に「義務教育は、これを無償とする」と言う条文を見付ける。この事で、それまで有償だった教科書代に疑問を呈し「義務教科書の無償提供運動」を興した。
 結果、1963年「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が成立し1969年までに順次、全国の小中学校の教科書が無償提供されることになる。

八鹿高校事件
 1974年11月22日、兵庫県養父郡八鹿町(現養父市)の八鹿高等学校の教職員約70名と解放同盟や総評系労組で構成された八鹿高校差別教育糾弾共闘会議が衝突する事件が起こった。この事件により48名が負傷し、29名が入院、危篤を含め2か月から1週間のけがを負ったとされる。

同和事業に関わる不正・腐敗
 同和対策事業の伸展に伴い、同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・汚職行為が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。とりわけ1981年の北九州土地転がし事件、2001年に表面化したモード・アバンセ不正融資事件などに、運動団体の幹部が関与していたことが報道されている。
 2006年、奈良、京都、大阪で同和対策事業に関する不正が数多く発覚し、各自治体は同和対策の見直しを発表。奈良では部落解放同盟奈良県連古市支部の幹部が、奈良市職員でありながら架空の病気を理由にほとんど出勤せず、給与を詐取していた。

現在の部落差別
 かつて問題となった所得格差やインフラストラクチャー整備の遅れ、進学率の違いは住宅改善事業などの同和対策事業により指定地区ではかなり解消され、若い世代では差別意識は薄れてきている。しかしながら、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別部落の闇リスト(特殊部落「地名総鑑」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件が度々起こっている。結婚や就職、地域交流に関わる差別は当事者の判断にかかる事柄であり差別事象は多い。また、部落差別解放問題に取り組む団体の関係者(主に行政と地域との間のパイプ役となっている団体役員)による不正行為の発覚、路線の対立する各団体同士間のイデオロギーの差異に端を発する対立によるトラブルなど、違う類の問題も表面化している。
 少なくとも高度経済成長による人口の大移動、それに伴う都市近郊の開発・移転によりかつての被差別部落地区が薄れたり、新しく移入してきた住民の間で忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい。現在も義務教育の過程の中で、平等主義的な意味で、被差別部落についての教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と主張されている。
 一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、京都市、大阪市などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であり、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が形成されていることが近年明らかになってきている[10]。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになっており、その対処を巡り新たな課題が発生していると指摘されることもある[11]。
 政界においては野中広務が被差別部落出身として有名であるが、出身に起因する差別や妬みなどがあったと言われている。2001年の総裁選では、部落出身であるから総理にはなれないという話もでてきていた。こうした中、野中が同党の麻生太郎を差別発言を行ったとして名指しで非難し、麻生が否定するという一幕もあった。[12][13][14]。

部落問題とマスメディア
 部落問題は、現代の日本において一種のタブーであると言われる。そのためマスメディアなどで正面から取り上げられることは少なく(真面目に取り上げられるのは朝まで生テレビなど少数)、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。
 「部落」という言葉自体も、事実上の放送禁止用語となっており、出演者が「集落」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正(ニュース・生放送などの場合「集落ですね」などとその場で言い換える場合がある)が流される。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか、特に何事も無く放送が進む場合が多い。
 21世紀に入って『同和利権の真相』(寺園敦史、一ノ宮美成、グループK21著・別冊宝島Real、宝島社文庫)というシリーズが発表された。既に累計50万部前後のベストセラーとなっている。また、本書で取り上げられたハンナン株式会社の浅田満元会長が2004年4月17日にBSE対策の補助金詐取の嫌疑で逮捕された。
 なお、『同和利権の真相』で主要な批判の対象とされている部落解放同盟の公式見解として公表された反論文[15]や、や宮崎学、角岡伸彦など解放同盟外の論者らの同書への批判を眼目とした反論本『『同和利権の真相』の深層』(解放出版社)がある。

主な差別事象
結婚差別
 部落出身者と結婚すると血縁関係が生ずるため、「自分の家系(息子、娘)の血が穢れる」からと反対する家族(親戚なども)が多くいた。内密に身元調査や聞き合わせを行い、部落出身者と分かると結婚を許さない例や、好きな人と一緒になることに大変大きな妨げがあった。そのため部落民は部落民同士で結婚する事や、仮に部落外の人と結婚できたとしても、それは親族の祝福がない駆け落ちであったりする事が多かった。また、結婚差別に遭い、自ら命を絶つ者も多くいた。今でも、その傾向は少なからずあり、露骨に反対する場合・それ以外の理由に託けて反対する場合の両方がある。

就職差別
 1975年11月に部落地名総鑑事件が発覚し、被差別部落とされる地域を記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備されており、それを基にしてその地域に住んでいるものを意図的に不採用にするなどの例があった。行政書士などが職務上の権限を利用する例が後を絶たない。

差別とされた表現の例
* 1956年1月、小説家石上玄一郎が『朝日新聞』文化欄に発表した評論の中で「文壇には、特殊部落的偏狭さがみちみちている」と記述。これに対して部落解放同盟が朝日新聞社を糾弾。朝日新聞社は「今後、部落問題をタブー視せず、前向きに差別の現実を書く」ことを約束した[16]。
* 1967年1月と2月、小説家で精神科医のなだいなだが『毎日新聞』朝刊の人生相談欄『悩みのコーナー』にて、結婚差別を受けたという部落出身女性の投書に対して「部落民という考えは、内部の劣等感によって支えられている」「小さなつまらぬ悩みだ」と回答したところ、部落解放同盟が糾弾に乗り出した。
* 1969年、経済学者大内兵衛が、岩波書店刊行の雑誌『世界』3月号に論文「東大は滅してはならない」を発表。この論文における「大学という特殊部落の構造」という表現が部落解放同盟によって追及され、執筆者大内と岩波書店が糾弾を受けた。『世界』3月号は回収処分となり、編集部と大内が同誌の4・5月号に謝罪文を発表[17]。
* 1973年7月19日、司会者玉置宏がフジテレビのワイドショー『3時のあなた』にて「芸能界は特殊部落だ」と発言したところ、1973年8月16日、部落解放同盟が玉置とフジテレビと関西テレビを相手取って確認・糾弾会を開いた。玉置は謝罪し、テレビ局側は部落問題解決のための番組作りを約束した。
* 1973年9月、映画評論家の淀川長治が『サンケイ新聞』のインタビュー記事にて、自らの庶民性を示す証として、両親から近寄らないよう言われていた「特殊な部落にある銭湯にはいったこともあった」、「この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのにねぇ」という経験を語ったところ、部落解放同盟が「両親の差別意識を肯定するとともに、自らのエリート意識をさらけ出すもの」「エセ・ヒューマニズム」(宮原良雄)と反撥し、糾弾に至った[18]。この事件の後、サンケイ新聞社は1974年11月から1975年3月にかけて、部落問題の特集記事として『シリーズ・差別』を大阪本社発行の朝刊に連載した。淀川は、部落解放同盟大阪府連合会制作による狭山事件告発映画『狭山の黒い雨』を部落問題の視点から批評するよう約束した。
* 1979年8月、曹洞宗宗務総長で全日本仏教会理事長(当時)の町田宗夫が、米国ニュージャージー州プリンストンにおける第3回世界宗教者平和会議にて、「日本に部落差別はない」「部落解放を理由に何か騒ごうとしている者がいる」「政府も自治体もだれも差別はしていない」と発言。このことが部落解放同盟から「部落解放運動の全面否定」とされ、糾弾に至った。
* 1981年2月、政治学者で東京大学社会科学研究所教授(当時)の有賀弘が、ベルリン自由大学における日本学研究室の金子マーティン講師(当時)の部落問題に関する研究発表に対し、「部落問題は東日本にはない。西日本にはあるが、それは部落解放同盟と日本共産党との同和予算をめぐる金銭上のトラブル」「日本語の部落という言葉は、村落とか集落とかいう一般名詞であって何も差別を意味するものではない」と発言。このことが部落解放同盟の糾弾を招いた。
* 1989年、ニュースキャスターの筑紫哲也が「ニューヨークの街も多分屠殺場だね」と番組で発言をした。当時、公の場で使われる差別的な言葉が問題となっていたため(批判的な意味で言葉狩りとも呼ばれた)、筑紫は「屠殺場」という言葉の使い方が不適切であったとして翌日に謝罪をした。しかし一部の屠場労組から抗議があり、部落解放同盟も加わっての糾弾会が行われた[19]。

差別とされなかった表現の例
* 松本治一郎は、1952年7月、徳川夢声との対談で「『部落』と書こうが『エタ』といおうが、問題じゃないんです。……その前後に差別の意味が加わってさえいなけりゃ、少しも問題はないわけですよ。それを糾弾するというのは、ことさらためにしようとするハシッパのもんです。……悪い奴にかかると、やっぱりヘンなことが生ずる」[20]と語り、差別表現として糾弾するか否かはその語が差別的文脈で使われているか否かによるという見解を示したが、1948年には松本自身が「私は三百万部落民の水平運動から、さらに数歩をすすめて、いわば世界の特殊部落におちこんだ八千万日本人民の水平運動をおこしたいと考えているのだ」[21]と述べ、特殊部落という語を差別的文脈で使用していた。しかしこれは糾弾の対象とならず、松本自身も自己批判しなかった[22]。
* 1952年8月20日、『解放新聞』は「おじいさん達も斗つた─八十一回目の解放令記念日を迎え」と題する山村慎之助の記事を載せた。この記事の中では「再軍備と植民地化に反対し、民族の解放を斗いとることが、外国帝国主義と国内反動のために世界の特殊部落になれはてた日本民族全体の死活の問題として切実に出されてきている」と、やはり特殊部落という語が差別的文脈で使われていた。しかし、これもやはり糾弾の対象とならず、『解放新聞』も山村も自己批判しなかった[23]。
* 小林よしのりがゴーマニズム宣言で「穢多」と誤って書いてしまったこと。抗議を受けなかったが、自らこれをミスである(漢字で書くのは誤り)と作中記している。

地域較差
 被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んであるが、関東地方では被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にある。
 北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり[24]、明治期以降解放運動の盛り上がりに欠けていた。学校での教育なども行われないため、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も単に一般の集落や町内会を指すことが多い。北海道や南西諸島には歴史的な被差別部落は存在しない。
 北陸地方で部落問題が発展しなかったのは全国の被差別民も多く帰依していた浄土真宗が大多数を占めることが一因である。浄土真宗では武士、猟師、そして被差別民の「役務」・「家職」にともなう殺生は、忌避の外としていた。例えば越中(富山)には「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」という「念仏行者心得か条」が残っている。越中(富山)の被差別民にあたる藤内は隔離される事無く、集落に分拠していたため被差別部落そのものが形成されなかった。
 加えて、1980年代後半以降、これらの地域では急速な過疎化が進み、1990年代以降は被差別部落も含め消滅する集落が珍しくなくなった。この状態で被差別部落の隔離が維持されることはなく、意識が低かったこともあって部落問題そのものが過去のものとなりつつある。[25]

部落問題に関連する団体の対立とインターネット
 「最近、都会やその近郊では近隣の住宅や人の移動などで存在が薄れ、部落差別は現在はほとんど意識されることがなくなった」とも言われるが、最近でもその存在その物をタブーとする人においては差別意識が改善されたのではなく、単に忌避意識が潜在化しているだけであるという解釈もある。
 また、糾弾闘争に対して、近年では、「差別とされる内実も、被差別部落出身だからというよりも、強力な圧力団体がバックについているがゆえに敬遠され、差別解消を建前とする部落解放同盟が、反対に真の意味での差別解消を妨げている。自己目的化した団体は、本来の目的を達成することでその存在意義を失うことを恐れている」とする主張もある。
その一方で、出版物やインターネットなどでアンダーグラウンド情報などとして、差別を煽動するような情報が流されるという事実もある(アマチュアパケット無線での「地名総鑑」流布事件)。
 また、「苛烈な『糾弾』への忌避感情」を利用して押し売りや恐喝等を行うえせ同和行為(2007年には在日朝鮮人による犯罪も発覚している)も部落問題の解決を遅らせている一因となっている。

---FYI:Burakumin---
From Wikipedia, the free encyclopedia
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http://en.wikipedia.org/wiki/Burakumin

Burakumin (部落民, literally tribe people?), are a Japanese social minority group. The burakumin are one of the main minority groups in Japan, along with the Ainu of Hokkaido, the Ryukyuans of Okinawa and the residents of Korean and Chinese descent.

The burakumin are descendants of outcast communities of the feudal era, which mainly comprised those with occupations considered "tainted" with death or ritual impurity (such as executioners, undertakers or leather workers), and traditionally lived in their own secluded hamlets and ghettos.

They were legally liberated in 1871 with the abolition of the feudal caste system; however, this did not put a stop to social discrimination and their lower living standards because Japanese family registration (Koseki) was fixed to ancestral home address until recently. In certain areas of Japan, there is still a stigma attached to being a resident of such areas, including some lingering discrimination in matters such as marriage and employment.

The long history of taboos and myths of the buraku left a continuous legacy of social desolation. Since the 1980s, more and more young buraku started to organize and protest against their social misfortunes. Movements with objectives ranging from "liberation" to encouraging integration have tried over the years to put a stop to this problem.

Current numbers
The number of burakumin asserted to be living in modern Japan varies from source to source. A 1993 investigative report by the Japanese Government counted 4,533 dowa chiku (同和地区 "assimilation districts"-buraku communities officially designated for assimilation projects), mostly in western Japan, comprising 298,385 households with 892,751 residents.

The size of each community ranged from under five households to over 1000 households, with 155 households being the average size. About three quarters of settlements are in rural areas. The distribution of discriminated communities varied greatly from region to region.

No discriminated communities were identified in the following prefectures: Hokkaido, Aomori, Iwate, Miyagi, Akita, Yamagata, Fukushima, Tokyo, Toyama, Ishikawa and Okinawa.[1]

The Buraku Liberation League (BLL), on the other hand, extrapolates Meiji-era figures to arrive at an estimate of nearly three million burakumin.[2] A 1999 source indicates the presence of some 2 million burakumin, living in approximately 5,000 settlements.[3]

In some areas, burakumin hold a majority; they account for over 70 percent of all residents of Yoshikawa in Kochi Prefecture. In Oto in Fukuoka Prefecture, they account for over 60 percent.[4]

Japanese government statistics show the number of residents of assimilation districts who claim buraku ancestry, whereas BLL figures are estimates of the total number of descendants of all former and current buraku residents, including current residents with no buraku ancestry.

Notable burakumin
* Hiromu Nonaka, chief cabinet secretary (1998-1999) [5]
* Kenji Nakagami, writer, critic, and poet

Terminology
The term 部落 buraku literally refers to a small, generally rural, commune or a hamlet. People from regions of Japan where "discriminated communities" do not exist any more (e.g., anywhere north of Tokyo) may normally refer to any hamlet as a buraku, indicating that the word's usage is not necessarily pejorative.