2010年2月15日月曜日

もみ消しの公開

もみ消しの公開があった。
 ロッキード事件の発覚直後、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から
米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと
報告する公文書が米国で見つかった。
ジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。
米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、秘密
指定が解除された。

中曽根康弘らが、裏で米政府に関係者リスト非公開の根回しをした後、
三木武夫が表で、米政府に公開を要請する。根回しは、国会運営の
段取りも説明済だから、米国との取引で原則非公開と言うどちらも
玉虫色の結果にしたと思う。


 占領下で、米軍が旧日本軍731部隊の関係者の郵便物を検閲するよう
指示した秘密文書の発見は、「戦犯免責」の経緯など謎の多い部隊の
研究に新たな光を投げかけるものだ。一方で、GHQによる検閲が、米側
にとって幅広い情報を得るための手段として駆使されていたことも浮き
彫りになった。

細菌戦に関するあらゆる情報を収集していた米国。
細菌兵器詳細や人体実験報告等は入手できず、検閲を強化した。
検閲対象
・石井四郎陸軍中将に関するあらゆる言及。
・細菌戦への言及。
・平房研究所(ハルビンにあった731部隊)への言及。
・関係者同士の連絡にかかわる記述。
・米軍による関係者への尋問。

公文書の公開は、事象が日々変わる評価により良悪となる両面性を持つ。
公文書の黒塗りは想像をかきたてる。
歴史に汚点を残すと恐喝した人もいたが、時間が過ぎても公文書を
公開できないのは、私利私欲で公開できない面の方がより強いことが
また証明されたと思う。

核密約証言テープ 寄港持ちこみにあたらず
核密約文書 やっぱり破棄

---ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書---
2010年2月12日3時30分
http://www.asahi.com/politics/update/0211/TKY201002110364.html

 ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。
 この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。
 ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。
 与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
 文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。
 さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。
 文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。
 結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)

 東京地検特捜部検事時代にロッキード事件を捜査した堀田力弁護士の話 米国への要請が事件発覚直後で、しかも「日本の政府がひっくり返るかもしれない」とブラフ(脅し)みたいな言い方なのに驚いた。私は法務省刑事局の渉外担当参事官として2月26日に渡米し、資料入手の交渉をしたが、それを阻止するような動きがあるとは察してもいなかった。


---731部隊:米軍が関係者の郵便物検閲 尋問で人体実験情報得られず---
毎日新聞 2010年2月10日 東京夕刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100210dde018040039000c.html

 第二次世界大戦後の占領下で、米軍が旧日本軍731部隊の関係者の郵便物を検閲するよう指示した秘密文書の発見は、「戦犯免責」の経緯など謎の多い部隊の研究に新たな光を投げかけるものだ。一方で、連合国軍総司令部(GHQ)による検閲が、米側にとって幅広い情報を得るための手段として駆使されていたことも浮き彫りになった。戦争犯罪と検閲--この二つの接点には、東西冷戦の萌芽(ほうが)期という時代を背景に、なお深い闇が横たわっていることを感じさせる。戦後史を見直すうえでも興味深いテーマといえそうだ。
 シロウ・イシイと細菌戦に関する、あらゆる情報を検閲せよ--。山本武利・早稲田大教授(メディア史)が、国立国会図書館の米公文書マイクロフィルム資料の中から見つけた検閲指示の文書には、石井四郎、内藤良一、北野政次といった731部隊の中心人物ら21人の氏名と肩書、住所のリストが英文でタイプされていた。石井と北野は元部隊長、内藤は石井の右腕とも「番頭」ともいわれた人物で、いずれも陸軍軍医だった。
 五つある検閲のポイントの最初は「石井四郎陸軍中将に関するあらゆる言及」。「細菌戦」や、旧満州(現中国東北部)のハルビンにあった731部隊の本部施設「平房研究所」への言及、関係者同士の連絡にかかわる記述、さらに米軍による関係者への尋問の事実も検閲対象としている。尋問そのものが秘密に進められたことをうかがわせる。
 戦後の米軍による731部隊調査では、1945年9月に来日した細菌学者のサンダース中佐と、翌46年1~2月に石井を尋問した獣医のトンプソン中佐の報告が知られている。米側は当初から戦争犯罪を問わない代わりに、石井や内藤らから細菌兵器に関するデータを得ようとしたが、46年末までの段階では、人体実験を行っていたことなど核心の情報は入手できなかった。
 ノンフィクション作家、青木冨貴子さんの著書『731』には、今回と同じ46年2月15日付でG2が対敵情報部隊(CIC)あてに出した秘密文書が紹介されている。米軍は当時、トンプソンによる石井の尋問を進めていたが、人体実験に関する情報は入手できていないことを記したものだ。
 つまり、全く同時期に並行して、石井ら部隊関係者の検閲を指示していたことになる。米側が「尋問だけでは心もとなかったのか、郵便検閲という別のアプローチをしていた」(常石敬一・神奈川大教授)様子が伝わってくる。
 文書では、石井が卒業した京大医学部の正路倫之助、吉村寿人ら、つながりを指摘されながら「米軍の尋問対象から外れた」(常石教授)人物の名前も検閲リストに載っている。また、カツゾウ・ニシ、キジ・ニシムラといった従来知られていない数名の人物も挙がっており、今後の同部隊研究の端緒にもなりそうだ。【栗原俊雄】
◇A級戦犯らとともに検閲対象に
 見つかった文書は、46年2月15日付で米陸軍参謀第2部(G2)から、GHQの民間検閲局(CCD)あてに出されていた。「廃棄」の指示のメモ、かすれた「機密」のスタンプも生々しい。
 GHQによる検閲は、世論把握や占領軍への批判防止を目的に、郵便や電話から、新聞、出版などのメディアまで徹底して行われた。占領開始直後の45年9月から49年10月まで続いた郵便検閲は、初期には海外郵便物の100%、国内も数%がランダムに抜き取られ、東京、大阪、福岡、札幌の4カ所で検閲された。この間に開封された郵便物は2億通を超え、GHQは極右団体や戦犯、共産主義者など要注意団体・人物の動きを探るとともに、占領目的に役立つ情報を得ていた。米軍将校などの検閲官の下で郵便検閲に携わった日本人は、ピーク時には6000人以上いたとみられる。
 山本教授によると、この文書は「戦犯容疑者を対象にしたGHQ検閲の人物リストなどとともにファイルされていた」。石井四郎の名は、同じファイルの別の戦犯関係者リストにも、土肥原賢二(元陸軍大将・死刑)や広田弘毅(元首相・同)、賀屋興宣(元蔵相・終身刑)といったA級戦犯らとともに並んでいる。
 46年2月は、5月に開廷する極東国際軍事裁判(東京裁判)を控え、戦犯容疑者の逮捕が進められていた時期に当たる。一方で、連合国の中でも共産主義国のソ連と、米英など自由主義国との対抗関係が次第に明らかになり、米軍は新たな情報戦略を構築する必要にも迫られていた。
 山本教授は「731部隊にはソ連も注目していたから、米軍が情報管理に神経を使っていたのがよく分かる」と話す。【大井浩一】
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■ことば
◇731部隊
 旧日本陸軍が1933年に創設し、中国・ハルビンに本部を置いた秘密部隊。正式名は関東軍防疫給水部本部。細菌戦の研究と遂行のため、中国人などの生体実験や生体解剖を行い、中国戦線では細菌戦も行った。部隊長を務めた石井四郎陸軍軍医中将の名から、石井部隊とも呼ばれた。部隊員は四つの支部を含め、千数百人いたとされる。

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