2010年3月11日木曜日

核持込み黙認

核持込みを黙認していたようだ。
 日米の密約問題を検証していた外務省の有識者委員会は、岡田克也外相
に報告書を提出した。1960年の日米安全保障条約改定時に、核兵器を搭載
した米軍艦船の日本への寄港を事実上認める了解があったかどうかについ
て、「暗黙の合意」があったと指摘、

有識者委は60~70年代に交わされた4密約を検証対象
 報告書は文書があるものを「狭義の密約」
 文書がなくても暗黙の合意が成立した取決めを「広義の密約」

(1)核搭載艦船の一時寄港・領海通過:広義の密約
(2)朝鮮半島有事の際の米軍による在日米軍基地の自由使用:狭義の密約
(3)緊急事態の際の沖縄への核の再持ち込み:密約とはいえない
(4)沖縄返還の原状回復費の肩代わり:広義の密約


安倍晋三
「(密約)問題について検討、検証したことはない」
「評価は歴史に任せるという覚悟をもって当時の指導者がそういう判断を
  したのだろう。その結果、日本の安全は守られたと思う」
福田康夫
 「官房長官、首相時代には、その点(核持ち込みなど)での問題が
  起きたことはなかったと思う。特に関心を持ったこともない」
田中真紀子
 「核の話なんか(外相)当時は一切テーマに出なかった」
川口順子
「事務当局から聞いたことと、歴代の答弁を参考に最善の答弁をしてきた。
  だまそうと思って答弁をしたことはない」

海部俊樹も「知っていた」とTBS系の番組で話した。
密約から40年以上経っても、公開は影響が大きいと言う。
米国は公開しているのに、日本は公開しないことで、公文書公開の問題
なのか、自民党の偽証の問題なのか、民主党の核開発の問題かは不明だ。


「核兵器めぐる日米密約は存在した」岡田外務大臣(10/03/10)


「核密約」で有識者委が報告書

いわゆる「密約」問題に関する調査結果


核契約は紙切れ
核密約証言テープ 寄港持ちこみにあたらず
核密約文書 やっぱり破棄
核密約 元次官ら認識
核兵器貯蔵地 嘉手納、那覇、辺野古
核密約再確認
核密約関連文書公開
核密約 日本の要請で再機密化
核密約文書 最後はトイレットペーパー
核 秘密の義務
核密約 日本の要請で再機密化


---密約に川口元外相「だまそうと思っての答弁、ない」---
2010年3月10日2時39分
http://www.asahi.com/politics/update/0310/TKY201003090491.html

 「密約」調査発表を受け、歴代首相、外相経験者や各党代表から核持ち込みをめぐる対応への釈明や、調査への評価、批判の声があがった。
外務省密約調査 報告書の全文
 安倍晋三元首相は「(密約)問題について検討、検証したことはない」と語った。自民党政権は国会でうその答弁を重ねてきたが、「評価は歴史に任せるという覚悟をもって当時の指導者がそういう判断をしたのだろう。その結果、日本の安全は守られたと思う」と擁護した。
 福田康夫元首相は、「官房長官、首相時代には、その点(核持ち込みなど)での問題が起きたことはなかったと思う。特に関心を持ったこともない」とした。
 田中真紀子元外相は、「核の話なんか(外相)当時は一切テーマに出なかった」と述べ、川口順子元外相は「事務当局から聞いたことと、歴代の答弁を参考に最善の答弁をしてきた。だまそうと思って答弁をしたことはない」と弁明した。
 一方、社民党の福島瑞穂党首は「政権が代わって、真実が、問題点も含めて皆の目にはっきり出てきたのは大事なことだ」と評価。党として求めてきた非核三原則の法制化については「いずれ法制化はされたらいい」と述べるにとどまった。
 公明党の山口那津男代表は、「現時点で得られる情報を分析したひとつの結果。党としてもよく検討する」と語った。共産党の志位和夫委員長は、有識者委員会の報告書が、核搭載艦の寄港は事前協議の対象外とする密約の根拠とされた、安保改定交渉の「討議記録」そのものは密約ではなかったとした点について、「歴史の偽造だ」と批判した。


---日米密約:有識者委報告書 要旨(その1)(その2止)---
毎日新聞 2010年3月10日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2010/03/10/20100310ddm010010137000c.html
http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2010/03/10/20100310ddm010010166000c.html

 岡田克也外相の委嘱で昨年11月27日発足した「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会」は、約3カ月にわたって四つの「密約」に関する外務省内部調査報告書を精査するとともに、独自の資料収集や関係者へのインタビューを通じて検証してきた。外務省の内部調査報告書と、有識者委員会の報告書の要旨をまとめた。(肩書はいずれも当時)

<1>60年安保条約改定時の核持ち込み密約
 核搭載艦船の一時寄港に関する密約は、調査対象となった4密約の出発点と位置付けられる。1960年1月の日米安全保障条約改定交渉において、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使が「討議の記録」という非公表の文書を作成し、これが核搭載艦船の領海通過・寄港を両政府の事前協議の対象から除外する日米間の秘密の了解となっていたのではないかというものである。
 「討議の記録」は、核の所在をあいまいにする米国のNCND(核兵器の存在について肯定も否定もしない)政策と反核世論を抱える日本の利害が一致して作成された。核搭載艦船の通過・寄港を事前協議の対象とするかを巡り60年当時詰めた議論はされなかったが、63年の大平正芳外相・ライシャワー駐日米大使以降「暗黙の合意」が徐々に形成され、68年から69年にかけて固まった。「暗黙の合意」は広義の密約と解釈され、それ以降も「核搭載艦船の寄港は事前協議の対象」とうその説明を続けた日本政府の責任が問われる。

◇外務省
 藤山外相とマッカーサー駐日米大使とで作成された「討議の記録」の写しと思われる文書2件(英文のみ)が発見された。いずれも60年1月6日付で肉筆でのイニシャルはなく、オリジナル文書の写しと思われる。「討議の記録」によって核搭載艦船の領海通過、寄港を事前協議の対象から除外するとの日米間の認識の一致があったかどうかについては否定する多くの文書が見つかり、むしろ認識の不一致があったということと思われる。

◇有識者委
 60年改定の日米安保条約に付属する「交換公文」には「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更(中略)は、日本国政府との事前協議の主題とする」とある。核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港が日米の事前協議の対象になるかは「交換公文」の解釈を巡る問題だ。藤山外相とマッカーサー大使による「討議の記録」は、「交換公文」の意味を明確にするためのもので、日米の申し合わせで非公開になった。だがこの記述だけで「密約」の証拠と見るのは難しい。
 「討議の記録」の2項Cにある「事前協議は合衆国軍隊とその装備の日本国への配置、合衆国軍用機の飛来、並びに合衆国海軍艦船の日本国の領海への進入や港湾への入港に関する現行の手続きに影響を与えるとは解されない」との記述が、核持ち込みに関する了解との意識は日本側交渉者にはなかった。米政府は核搭載艦船寄港を事前協議の対象外とみなしたようだが、交渉当時、その解釈を日本側に明らかにした形跡はない。
 「我方は、総(すべ)ての『持ち込み』(イントロダクション)は、事前協議の対象であるとの立場をとり、艦船航空機の『一時的立ち寄り』について特に議論した記録も記憶もない」(68年1月27日、東郷文彦北米局長のメモ)
 安全保障課長として交渉を担った東郷は改定から8年後、外務省内でこう説明している。
 マッカーサー大使は、軍の支持を取り付けるために核搭載艦船の寄港問題が重要だと認識したが、問題の微妙さを知り明確に言ったわけではない。日本側も58年7、8月の文書で、核持ち込みの事前協議は「臨時に日本国内に入る船舶及び航空機にも適用がある」と方針を明記し、問題を認識していた。
 マッカーサー大使は、真正面から求めれば日本側は拒否せざるを得ないと判断していた。事前協議の内容を詰める責任は制度を要求した日本側にあり、日本が確認しないなら米側は米側の解釈をしていいと判断したのではないか。米国が意向を日本にどう伝えたか明確な記録はないが、マッカーサー大使は後に、核搭載艦船の寄港は事前協議できないことを岸信介首相、藤山外相、山田久就外務次官、東郷安全保障課長らに伝えたと証言している。藤山外相も81年の毎日新聞のインタビューで、マッカーサー大使から交渉中に「核を持っている船の位置はだれにも分からない。言えない」と言われたと述べている。記録に残す詰めた議論はないが示唆は受けたと考えればつじつまは合う。
 日本側は米国側の考えに気付き、漠然と希望は伝えたかもしれないが、核搭載艦船の寄港を事前協議の対象にしてほしいと正式に要求することはなく、米側も持ち出さず、議論が詰められなかった構図が浮かぶ。米政府は、艦船、航空機などに積む核兵器の存在を肯定も否定もしないNCND政策を取っていた。一時寄港を事前協議の対象にすればどの米艦船も日本に寄港できなくなり、日米安保が成り立たなくなる。しかし核搭載艦船の寄港に事前協議が必要ないと明確な了解を日本側から取り付けるのは、国内世論の強い反核感情から難しい。米国がはっきり要求すれば安保改定交渉が頓挫する恐れがある。問題を正面から議論するのは難しいとの認識の一致があったと思われる。
 あいまいにした場合、国会でどう対応するか政府内で答弁が練られたかを語る資料は見つかっていない。明確な合意がないにもかかわらず赤城宗徳防衛庁長官が、事前協議の対象になる合意があるような答弁をした。
 「日米双方にとりそれぞれ政治的軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我方も深追いせず今日に至った」(同、東郷北米局長のメモ)
 互いに「深追いせず」、あいまいなままにしておく。核搭載艦船は事前協議なしに寄港するかもしれず、日本政府はそうなることを表向き否定するかもしれないが、互いに抗議はしない。そういう「暗黙の合意」が安保改定時に出来上がりつつあった。固まるのは、63年4月3日(ママ)の大平外相・ライシャワー大使の会談以降。池田勇人首相が国会で、核搭載艦船の寄港は認めない趣旨の発言をし、米側は危機感を抱いた。ライシャワー大使は会談後、「米国の現在の解釈に完全に沿うことで十分な相互理解に達した」と報告したが、東郷のメモによるとジョンソン駐日米大使は後に「大平大臣は何(いず)れとも見解を述べられなかった」と説明した。大平・ライシャワー会談で重要なことは、解釈の合意ができたことではなく、日本政府が米側の解釈を明確に知らされ、実際に核搭載艦船の事前協議なしの寄港が行われている可能性が高いことを知り、異議を唱えなかったことだ。東郷のメモによると、佐藤栄作首相も64年12月29日にライシャワー大使から伝えられ、異議を唱えなかったらしい。ライシャワー大使以後は、日本側の国会答弁にこだわることなく核搭載艦船の事前協議なしの寄港を続けたと推定される。
 しかし政府は「核搭載艦船の寄港は事前協議の対象になる」と国会などで説明を続けた。米側の解釈を知っているから不正直な説明で、「事前協議がないから核兵器が搭載されていない」とは米国に責任転嫁するものと見られても仕方ない。米側と解釈の異なる「討議の記録」は公に説明できず、歴代政府答弁では「ない」と明白なうそをつき続けた。
 「日本周辺における外的情勢、或(あるい)は国内における核問題の認識に大きな変動のある如(ごと)き条件が生ずる迄(まで)、現在の立場を続けるの他なし」(同、東郷北米局長のメモ)
 このメモは以後、歴代首相、外相らへの説明に使われ、海部政権まで確認できる。68年の非核三原則の導入後も米国との「暗黙の合意」を維持することで固まった。
 ただし「暗黙の合意」をさまざまな証言や文書の発見が揺さぶった。74年9月、ラロック退役米海軍少将が「自分の経験では核搭載艦船は日本などに入港する際に核兵器を降ろすことはない」と米議会で証言した。
 「重大な政府不信、引いては国内政治の困乱(ママ)を招くおそれ大と認められ、緊急に相当の対策を樹立する必要がある」(74年10月21日、松永信雄条約局長のメモ)
 ラロック証言を受け大平蔵相(前外相)は田中角栄首相と諮り、核搭載艦船の寄港、通過を事前協議の対象から外すことを検討。来日したフォード米大統領の理解と協力を求めた。外務省では「核兵器の日本への持ち込み」の概念を明確にし、「単純なわが国の領海(領空)通過及び一時寄港はこれに含まれないことを確定」することに最重点を置き検討したが、12月の田中首相退陣で日の目を見なかった。
 81年5月にライシャワー元大使が毎日新聞のインタビューで「核搭載艦船の寄港は核兵器の持ち込みにあたらず、事前協議の対象外というのが米国の理解」と明言。政府は再検討には乗り出さなかったが、説明の不自然さは多くの国民が感じるところとなった。91年、ブッシュ米政権が艦船、飛行機から戦術核の撤去を決定。これにより核搭載艦船の寄港問題は現実の日米関係を悩ます問題でなくなった。90年代には米国公文書の公開により「討議の記録」の存在が指摘された。
 日米両政府間には「暗黙の合意」という広義の密約があり、安保改定時に姿をあらわし60年代に固まった。日本政府の説明はうそを含む不正直な説明に終始し、民主主義の原則、国民外交の推進の観点からあってはならない。ただ冷戦下における核抑止戦略の実態と、日本国民の反核感情との間を調整することが容易ではなかった事情を考慮に入れて論じられるべきだろう。

<2>朝鮮半島有事の戦闘作戦行動に関する密約
 60年の安保改定交渉で、朝鮮半島有事における米軍の戦闘作戦行動を事前協議なしに認めること等を内容とする非公表の文書(いわゆる「岸ミニット」または「朝鮮覚書」)が存在するのではないかというものである。
 今回発見された藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使による「朝鮮議事録」は、朝鮮半島有事に備えて米側から提案。日本側も日本防衛への影響を踏まえて交渉にかかわり、双方が「密約」として認識した。日本国内の「米軍が始めた戦争に日本が巻き込まれる」との安保改定反対論が背景にあった。
 しかしこの密約は、69年の沖縄返還合意に伴い、事実上失効した。日本が「沖縄の米軍基地使用も事前協議の対象とする」との方針で交渉に臨み、佐藤栄作首相が事前協議を巡る速やかな態度決定を公に表明したためだ。さらに90年代前半の北朝鮮核危機をきっかけにした日米安保再定義で「過去のものとなった」と有識者委は結論付けた。

◇外務省
 藤山外相とマッカーサー駐日米大使とで作成された「第1回安全保障協議委員会のための議事録」(朝鮮議事録)の写しと思われる文書2件(英文のみ)が発見された。いずれも日付は60年1月6日付で肉筆でのイニシャルはなく、オリジナルの写しと思われる。日本側は沖縄返還交渉の際、佐藤首相・ニクソン米大統領の共同声明などで朝鮮有事の際の対応について対外的表明を行うことで本件文書を置き換えることを意図していた。

◇有識者委
 日米は60年の安保改定の際、「岸・ハーター交換公文」により、在日米軍が日本から行う「戦闘作戦行動」を事前協議の対象とすると合意した。同時に両国は非公開の「朝鮮議事録」により、朝鮮半島有事の際、在日米軍が日本政府と事前協議なしに出撃できると合意したことが今回の調査で確認された。
 安保条約改定交渉の開始で岸信介首相はマッカーサー大使らと会談した後、日本側出席者だけの会議で、「日本が現状より以上に戦争に巻き込まれる危険性が増すことは避けなければならぬ」(58年10月4日、「首相、外相、在京米大使会談録」)と強調した。日本側は「米軍が日本以外の極東地域に対する侵略に対処するために(在日米軍)基地を作戦的に使用する場合は日本政府と事前に協議するものとする」(同月2日、「安全保障調整に関する基本方針(案)」)との方針で臨んだ。59年6月26日、両国は「岸・ハーター交換公文」の最終案で合意した。
 ところが翌月の会談でマッカーサー大使は、朝鮮半島で共産側が戦闘を再開する場合は普通の作戦とは「別種」の事態になると指摘。朝鮮半島有事に限定して非公開の文書をまとめるよう求めた。
 会談でマッカーサー大使が「日本側に事前に協議しなければならないという約束はなし得ない」と事前協議なしで出撃する必要性に言及したのに対し、岸首相は「初めて聞いたが、研究しようではないか」(59年7月6日、「首相、外相、在京米大使会談録」)と応じた。
 日本側は(1)秘密文書を残すことは避ける(2)事前協議に関する交換公文の国内的効果が減殺される--との立場で反対。朝鮮議事録をまとめる交渉は難航し、11月後半から連日、藤山外相とマッカーサー大使で続行され、12月23日に合意した。最終案文は60年1月6日、藤山外相とマッカーサー大使がイニシャル署名した。
 マッカーサー大使「朝鮮半島では、米軍の軍隊が直ちに日本から軍事戦闘作戦に着手しなければ、国連軍部隊は停戦協定に違反した武力攻撃を撃退できない事態が生じ得る」
 藤山外相「緊急事態における例外的措置として、停戦協定の違反による攻撃に対し国連軍の反撃が可能となるように、在日米軍によって直ちに行う必要がある戦闘作戦行動のために日本の施設・区域を使用され得る」(「朝鮮議事録」)
 米側は、日本が非自民党政権に交代した場合でも、朝鮮半島有事に備えて約束した文書を交わすことに最後までこだわった可能性がある。日本側にも、朝鮮半島情勢が日本自身の安全にとって緊要であるとの認識があり、結局合意することになったとみられる。74年の米国務省文書も最初に米側から提案した「密約」と認め、日本側交渉当事者及び岸政権も密約の性格を帯びたとの認識を持っていたのは確実である。
 沖縄返還に当たり佐藤首相は69年、事前協議で朝鮮半島有事に肯定的に対応すると対外表明することで、朝鮮議事録を置き換えようと考え、米側と交渉した。「主権国家として自国領土よりする戦闘作戦行動には当然協議を受けなくてはならない」との立場からだった。
 愛知揆一外相「(首相声明で)事実上事前協議を免除するのと同じことを約束したい」
 マイヤー駐日米大使「60年の了解以下のものを受諾するのは難しい」(69年7月17日、「沖縄返還問題に関する愛知大臣、マイヤー米大使会談」)
 その後、9月19日に下田武三駐米大使は愛知外相への公電で「共同声明の表現が米側としてほぼ満足すべきものとなりつつあるので、秘密協定はつくらなくてもよいというのが国務省内での大勢である」とのフィン米国務省日本部長の発言を報告。11月21日に佐藤首相とニクソン米大統領の共同声明で「首相は韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要と述べた」と明記。佐藤首相は演説でも「(朝鮮半島有事の際に)日本政府としては事前協議に対し前向きに、すみやかに態度を決定する方針」と述べた。佐藤首相の一方的声明を米側は評価したが、朝鮮議事録の有効性を巡って日米間で明確な決着が付けられることはなかった。
 日本の首相が先の態度を表明した後、米側が事前協議なしの基地使用を図ることは考えられず、朝鮮議事録は事実上失効したと見てよい。97年の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)、99年の周辺事態法など日米同盟関係が緊密化されたことに伴い、事実上、朝鮮議事録は過去のものになった。

<3>沖縄返還時の核再持ち込み密約
 沖縄返還後に重大な緊急事態が生じ、米国政府が核兵器を沖縄へ再び持ち込むことについて事前協議を提起する場合、日本側はこれを承認するとの内容の秘密の「合意議事録」が、佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で作成されたのではないかというもの。若泉敬氏(96年死去)が著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で、69年11月の首相訪米前、米側と極秘折衝に当たったことを明かした。
 外務省に「合意議事録」は保管されておらず、交渉が若泉-キッシンジャーのルートで行われたことが浮かび上がった。昨年12月になって「合意議事録」が佐藤首相の遺品として残っていたことが判明。佐藤首相は文書を私蔵したまま、引き継いだ節は見られず、議事録は佐藤内閣以降の政権を拘束する長期的効力を持つものではなかった。有識者委は同ルートが開かれたこと自体は評価する一方で、内容的に共同声明を大きく超えないなど「密約」としての性格に否定的見解を示した。

◇外務省
 若泉氏が準備したとされる「合意議事録」は発見されなかった。外務省は沖縄返還後の有事核持ち込みについて「何らかの記録」作成が必要になる可能性を懸念し、準備研究を行っていたが、文書なしに決着したというのが外務省の認識だった。なお調査終了後、「合意議事録」が佐藤元首相宅に残されていたとの報道を受け、写しを入手。若泉氏の著作にある「合意議事録」と比較を行った結果、内容はほぼ同一であることを確認した。

◇有識者委
 沖縄の施政権返還にあたって最も難航したのは、返還後の基地機能に関する問題、とりわけ核兵器の扱いであった。69年11月の佐藤首相とニクソン大統領の共同声明は、核に関する日本の国民感情を大統領が理解するとともに、安保条約の事前協議事項に関する米側の立場が尊重されると合意。ところが94年刊行された若泉敬著「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」が、佐藤首相とニクソン大統領との間で「重大な緊急事態が生じた際」に米国が沖縄基地に核兵器を再持ち込みすることに対し、日本政府が「その必要を満たす」との「合意議事録」があったことを明らかにした。97年に公開された米国資料や09年12月に佐藤家から両首脳のフルネームで署名された「合意議事録」が発見されたが、調査では「合意議事録」も関連資料も外務省内では発見されなかった。
 68年9月11日、ハルペリン国防総省国際問題担当次官補代理は東郷文彦外務省アメリカ局長に対し「核は平常では常置しないが、有事の際、迅速に持ち込めることの保証をとることがabsolute minimum(必要最小限)だ」と述べた。
 米政府にとっては返還時に核兵器を撤去する場合でも有事の核兵器再持ち込みが前提だった。69年ニクソン政権発足で施政権返還を含む対日政策の再検討は本格化。正式交渉開始に先立って、核については他の要素が満足できる合意に達し、緊急時の貯蔵と通過権の確保ができれば最終段階で考慮すると決定した。核に関する最終決定を首脳会談まで引き延ばし、最大限の日本からの譲歩を得る戦略だった。
 日本政府の立場は非核三原則を踏まえて核抜き返還を求めるものであった。佐藤首相が67年12月の衆院予算委員会で「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」と答弁。外務省はこの方針を受け、交渉では返還時の核撤去を求め、返還後の核持ち込みについては事前協議の対象とする立場を固めていた。
 「オキナワに戦術核を置けることは抑止力にとってvital(極めて重要)。核についても事前協議はノーとは限らないことが明らかになるべきだ」(69年6月5日、ジョンソン国務次官の発言)
 愛知揆一外相とロジャーズ米国務長官の会談に同席したジョンソン国務次官は、不公表のフォーミュラ(定式)の作成を提唱。愛知外相は「不公表の文書が要らぬようなコミュニケを作り得ることが望ましい」と述べたが明確な回答は得られず、その後の交渉でも緊急時の核持ち込みに関する保証の必要性と方法を巡る溝は容易に埋まらなかった。9月12日の日米外相会談でロジャーズ長官は、沖縄返還に伴う財政面及び(海外向け短波放送の)VOA(ボイス・オブ・アメリカ)の活動継続に触れた後、繊維問題に言及。以降、繊維問題を含む日米関係全体が核との関係で考慮されていると米側が示唆する場面が続く。
 佐藤首相は69年10月7日、牛場信彦外務次官らの報告に対し、「非核三原則の持ち込ませずは誤りであったと反省している。この辺で(日本が)不完全武装だからどうすべきかということをもっと明らかにすべきであろうか」と発言。核問題で米側からの回答が得られない事態の下、首相の判断が揺らいだことがうかがわれる。
 「万一日本自身の安全がかかる事態が生じた場合には、核兵器の導入に対する政策を含む日本の防衛政策全般が慎重に再検討されなくてはならない」(69年10月15日、外務省作成の会談録での日本代表発言)
 首脳間の最終決定を待つほかない事態となり、外務省が取り組んだのは、共同声明とは別に何らかの文書を用意することであった。首相官邸も核の再持ち込みに関する共同声明第7項の三つの案をまとめた。訪米した佐藤首相は11月19日のニクソン大統領との首脳会談で、このうち第2案で合意した。これらの案を官邸に伝えたのは東郷アメリカ局長で、「東郷案」に基づく「官邸案」が外務省に戻され、同じ案が首相からあるルートで米国政府に伝えられた。
 若泉氏は69年7月、キッシンジャー大統領補佐官と極秘の連絡ルートを設定し、同9月末ホワイトハウスで会見した。キッシンジャー氏は緊急時に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込み、通過させる権利と、嘉手納、辺野古、那覇空軍基地などの核貯蔵地をいつでも使用できる状態に維持し、緊急事態に活用することを両首脳による合意議事録とするよう提案。若泉氏は佐藤首相に会い、極秘に保管する「合意議事録」に両首脳がイニシャル署名することを提案、佐藤首相は交渉を一任し、第1案から第3案までの手書きの共同声明草案を示した。
 「官邸案」は若泉-キッシンジャー・ルートを通してニクソン大統領に伝えられ、繊維に関する「覚書」と核に関する「合意議事録」が作成された。若泉氏は帰国後佐藤首相に共同声明が「第2案」となること、「手続きに関する取決め」や合意議事録、覚書を伝え、首相は出発(11月17日)直前に、共同声明をニクソン大統領が受け入れるとの感触を得るとともに、会談の際に首脳が小部屋に入り「合意議事録」に署名する手はずを了承した。
 「合意議事録」が佐藤内閣の後継内閣をも拘束する効力を持ったかについては、否定的に考えざるを得ない。佐藤首相自身が交渉開始前から「秘密了解」に慎重であったことに加え、文書を私蔵したまま、引き継いだ節は見られない。共同声明よりも踏み込んだ内容を持っているが、声明の内容を大きく超える負担を約束したものとはいえず、必ずしも密約とはいえない。この秘密文書がなくても日本はかねて準備していた「会談録」またはこれを基礎とした提案をして合意に向けて動き、結局合意は実現されたのではないか。
 他方で、キッシンジャー氏というユニークなスタイルを持つ強力な外交指導者との交渉において落としどころを探っていく上で若泉-キッシンジャー・ルートが開かれたことは大いに評価できる。このルートを通してニクソン大統領の意向が佐藤首相に届いた意義は大きい。

<4>沖縄返還時の原状回復補償費肩代わり密約
 沖縄返還交渉の最終局面で、沖縄返還協定で米国政府が自発的に支払うとなっている土地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりすることを内容とする非公表の「議論の要約」が作成されたのではないかというもの。吉野文六アメリカ局長とスナイダー駐日米公使が71年6月12日イニシャル署名したとの指摘がなされ、吉野氏が09年12月の情報公開訴訟で「米側と文書を取り交わした」と密約の存在を証言した。
 外務省の調査では「議論の要約」が見つからなかったが、非公表の外相書簡を米側から求められ、試案を作成し交渉したものの、外相の判断で発出を見送ったことを示すメモが見つかった。元毎日新聞記者、西山太吉氏による密約報道が取り上げられた翌72年の国会対策用に条約課長がまとめたメモだった。
 有識者委は「議論の要約」を「狭義の密約」としては否定したが、原状回復補償費の肩代わり合意と3億2000万ドルへの積み増し了解は「両国政府の財政処理を制約する」として「広義の密約に当たる」と結論付けた。

◇外務省
 吉野局長が署名したとされ、米国で公表された「議論の要約」は発見されず、作成されたかどうかは確認できなかった。400万ドルの支払い問題に関し、米側の強い要請に基づき、非公表の外相書簡を発出する交渉が行われたものの、日本側として文書を作成しないとの結論に至ったことを示すメモが発見された。400万ドルについて、米国が日本側から受け取る3億2000万ドルの中から手当てしようとしており、日本側も承知していたことはうかがえる。

◇有識者委
 沖縄返還協定第4条1項は、日本と日本国民の米国に対する請求権を放棄したが、同4条3項は返還時に米国が軍用地として使用していた土地の原状回復のため「自発的支払い」を行うと規定。米国側は財源問題から当初、支払いに応じようとしなかった。70年12月22日、愛知揆一外相はマイヤー駐日米大使との定例会談で土地の原状回復の支払いを要求。マイヤー大使は「『復帰は米国にとり出費を伴うことなし』の原則からして、財政支出を議会に要求するのは甚だ困難」と伝えた。
 「この問題が解決しない限り、沖縄住民は左翼の『返還協定粉砕』に与(くみ)する恐れさえある。私見だが、米側の支払い財源は当方としても考慮してよいのではないか」(71年5月11日、愛知外相がマイヤー大使との定例会談で)
 マイヤー大使らは愛知外相の示唆を、米議会に財政支援を求めることを回避できるとして歓迎。愛知外相は17日、米側との夕食会で「3億ドルを超える財政措置を考慮中」として米側の同意を求め、外務省はVOA移転経費(1600万ドル)と請求権対応を合わせた2000万ドルを3億ドルの外枠として扱う方針で大蔵省側と折衝を進めた。同月下旬には福田赳夫蔵相と愛知外相間で合意が成立。佐藤栄作首相の了承も得たとみられる。
 「日本政府は米政府による見舞金支払いのため、信託基金設立のため400万ドルを米側に支払うものである」(71年6月9日の東京での会合でスナイダー公使)
 スナイダー公使は、信託基金設立のため愛知外相からマイヤー大使あての「不公表書簡」の提出を要望。「米政府部内での説明が必要な時のみ提示されるもので極秘資料として取り扱う。ないと請求権に関する日本側提案は受諾し得なくなる」と付け加えた。日本側は資金源に触れることは受け入れがたいとして「米国政府が自発的支払いをするための信託基金を設定するために(返還に伴う財政問題の)一括決済額から400万ドルを留保することを了知する」との案を提示した。
 米側資料によれば、6月12日の最終協議で「署名による書簡」とするか「交渉経緯(記録)」とするかが議論となり、井川克一条約局長、吉野アメリカ局長ら日本側の交渉当事者は二分。吉野氏は交渉経緯全体への言及を避けるため「議論の要約」を作成し、米側の要望に応えることを提案したようだ。
 吉野局長「日本政府は請求問題の解決に際して、どれだけの支払額が予定されているかは正確には知らない」
 スナイダー公使「米政府は4条3項の規定に従って支払いの総額を決定する。総額は約400万ドルとなろう」
 吉野局長「貴方のステートメントを了知する。最終的な米側の支払総額はいまだ不明であるが、日本政府は、自発的支払いを実施する信託基金設定のため、支出される3億2000万ドルのうち、400万ドルが留保されることを予期している」
 スナイダー公使「貴方のステートメントを了知する」(71年6月12日、日米の交渉当事者間で合意した「4条3項に関する議論の要約」)
 外務省の関係資料には「議論の要約」も、12日の交渉経緯を示す記録も残されていないが、日本側書簡案の結末については栗山尚一法規課長(72年1月から条約課長)が作成したメモに「従来よりの基本的立場に基づきかかる文書の必要なしとの結論に達し、試案を正式に取り上げることなく終わった」と記されている。他方、東京では大臣書簡案に代わるオプションとして吉野局長とスナイダー公使によるイニシャルを前提とした「議論の要約」を作成することで合意し、外相の帰国前日の12日に吉野局長とスナイダー公使がイニシャル署名したものと考えられる。
 とりわけこれが注目されたのはいわゆる「西山事件」による。不公表書簡の疑惑は解けないまま推移し、西山事件の審理を通じても明らかにならなかった。調査で明らかになったのは、不公表書簡は検討されたが発出には至らず、その内容は必ずしも400万ドルの肩代わりを日本側が約束するものでなかったこと、さらに書簡とほぼ同趣旨の「議論の要約」の外務省における不存在だ。
 日本側の不公表書簡案も「議論の要約」もそれ自体は両国政府を拘束するような内容ではなく、両政府間の秘密の合意や了解を意味する「密約」にあたるわけではない。また日本側書簡案は最終的には愛知外相の判断で取りやめられた。「議論の要約」は事務当局レベルのものであり、米側には渡されていたが、その作成とイニシャルを愛知外相や後継の福田外相等の政府首脳が認識していたかと言えば疑わしい。
 しかし、原状回復補償費の肩代わり合意と3億2000万ドルへの積み増し了解は、非公表扱いとされ、明確に文書化されておらず、返還協定や関連取り決めにも明記されていないものであるが、両国政府の財政処理を制約する点で、「広義の密約」に該当する。
 沖縄返還に伴う財政経済交渉は、米国の国際収支が悪化し、黒字国と赤字国の責任分担をめぐる対立が激しさを増すとの環境の下で行われた。大幅な黒字国の日本は、米政府の外交攻勢に絶えず守勢に回り、早期返還の実現のために、財政負担の中身を詰めるより、「高度の政治的判断」を優先したことは十分理解できる。その過程では、公表できない合意や了解も必要となり、「議論の要約」もその一つと言えるかもしれない。
 しかしながら、巨額の財政取り決めに関する不透明な処理は、日米両政府による責任ある説明を不可能なものとし、密約疑惑の背景となる。交渉が複雑を極めたことも当面公表できない合意や了解が必要になった理由の一つだった。


---核持ち込み黙認 3密約認める---
2010年3月10日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2010031002000069.html

 日米間の四つの「密約」を検証してきた外務省の有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)は九日、岡田克也外相に報告書を提出した。最大の焦点である一九六〇年の日米安全保障条約改定時の核持ち込みは、明確な文書による合意はないものの、核搭載艦船の日本寄港を黙認する「暗黙の合意」が形成されていたと判断し、「広義の密約」と認定した。外務省が核持ち込み密約についてメモを作成し、歴代の首相や外相に説明していたことも判明した。
 岡田氏は記者会見で、核持ち込み密約の存在を認めた。過去に核搭載艦船が寄港していたかどうかは「疑いを完全に払拭(ふっしょく)することはできない」と指摘。「安保条約上の事前協議がない以上、核持ち込みはない」としてきた従来の政府見解を変更した。
 報告書では、密約を「公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つもの」と定義した上で、非公開の合意文書が存在する場合を「狭義の密約」、明文化されていないものの、暗黙の合意や了解があるものを「広義の密約」に分類。これに基づき、密約の有無を判定した。
 安保改定時にまとめられた米軍の戦闘作戦行動をめぐっては、朝鮮有事の際は事前協議を免除する非公開の「朝鮮議事録」の存在を確認し、「狭義の密約」と位置付けた。
 七二年の沖縄返還時、本来米側が支払うべき原状回復補償費を日本が肩代わりした事実を認定し、「広義の密約」に当たるとした。密約の根拠とされた吉野文六外務省アメリカ局長(当時)が米側と交わした文書は発見されなかったが、米側の資料を精査。文書自体は「拘束力なし」と判断した。
 沖縄返還後の核再持ち込みは、密約文書とされてきた「合意議事録」が佐藤栄作元首相の遺品の中から見つかった。しかし、沖縄返還を決めた六九年十一月の日米共同声明を超える秘密の合意はなかったとの理由から「密約とはいえない」と判断した。外務省の関与も確認できず、佐藤内閣以降の内閣への拘束力もないとした。
 報告書は当然あるべき会議録などの「不自然な欠落」を指摘し、外交文書の保管と公開の徹底を要請した。これを受けて外務省は九日、岡田氏を本部長とする「外交記録公開・文書管理対策本部」を設置した。


---核艦船寄港、暗黙の合意 有識者委報告、日米間に「広義の密約」---
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100310ATFS0803K09032010.html

 日米の密約問題を検証していた外務省の有識者委員会(座長、北岡伸一東大教授)は9日、岡田克也外相に報告書を提出した。1960年の日米安全保障条約改定時に、核兵器を搭載した米軍艦船の日本への寄港を事実上認める了解があったかどうかについて、「暗黙の合意」があったと指摘、明確な文書がない「広義の密約」だったと結論づけた。朝鮮半島有事の際の米軍の在日米軍基地の自由使用や沖縄への核の再持ち込みなどの秘密文書の存在も確認した。
 有識者委は(1)核搭載艦船の一時寄港・領海通過(2)朝鮮半島有事の際の米軍による在日米軍基地の自由使用(3)緊急事態の際の沖縄への核の再持ち込み(4)沖縄返還の原状回復費の肩代わり――の4密約を検証対象とした。いずれも60~70年代に交わされたとされる。
 自民党の歴代政権は国会答弁で密約の存在を否定していた。報告書は文書があるものを「狭義の密約」とし、文書がなくても暗黙の合意が成立した取り決めを「広義の密約」と分類した。(09日 15:49)


---核密約 歴代首相ら黙認 外務省極秘メモ公開---
2010年3月10日1時16分
http://www.asahi.com/politics/update/0309/TKY201003090277.html

 岡田克也外相は9日、日米の密約に関する外務省調査結果と有識者委員会の検証報告書を公表した。併せて公開された機密文書から、政府が1968年に核兵器搭載の疑いのある米艦船の寄港・通過を黙認する立場を固め、その後の歴代首相や外相らも了承していたことが判明。寄港の可能性を知りながら、「事前協議がないので核搭載艦船の寄港はない」と虚偽の政府答弁を繰り返していた。非核三原則は佐藤栄作首相の67年の表明直後から空洞化していたことになる。見つからなかった重要文書も多く、有識者委は破棄の可能性など経緯調査の必要を指摘した。
 調査対象となったのは、四つの密約。60年の日米安保条約改定時の核持ち込み密約は、核搭載艦船の寄港・通過は核「持ち込み」の際に必要な事前協議の対象外とするもので、米側が主張したが、日本政府は国会答弁などで存在を否定。こうした艦船の寄港・通過はない、との説明も繰り返してきた。
 ところが、今回の調査で、68年1月27日付の東郷文彦北米局長による極秘メモが外務省の執務室から見つかった。前日にジョンソン駐日米大使に持ち込みの米側解釈を伝えられたやりとりを詳述。「政治的、軍事的に動きのつかない問題」と位置づけ、日本としては「現在の立場を続けるの他なし」と言及。表向きは核搭載艦船の寄港を認めない姿勢を示しつつ、米側解釈に異を唱えず、寄港を黙認する方針が示されていた。
 この文書は歴代首相や外相への説明に用いられており、余白には当時の佐藤首相が読んだことや、田中角栄、中曽根康弘、竹下登の各氏らが首相在任時に説明を受けたことを示す記載がある。また、添付された89年のメモには、首相就任直後の海部俊樹氏に説明したと記されている。
 核持ち込みをめぐり、密約の根拠とされ、政府が存在を否定していた安保条約改定時の「討議記録」の写しも見つかった。有識者委はこの文書だけでは寄港が持ち込みに当たるかはっきりせず、「密約の証拠とは言えない」とする一方、問題を意図的に回避し、「暗黙の合意による広義の密約があった」とした。
 有識者委は寄港・通過をめぐり政府が虚偽の答弁を続けてきたことについて、「うそを含む不正直な対応に終始した」と批判。岡田氏も9日の会見で、「これほどの長期間にわたり、国会、国民に対して明かされてこなかったことは極めて遺憾」と述べた。
 朝鮮半島有事の際に、在日米軍が事前協議なしに出撃できるとの密約についても、根拠とされてきた非公開の議事録の写しが見つかり、有識者委は「密約」と位置づけた。
 沖縄返還後の核再持ち込み密約では、昨年末、佐藤元首相の遺族宅から佐藤氏とニクソン米大統領の署名入り合意議事録が見つかった。だが、有識者委は69年11月の両首脳の共同声明の内容を大きく超える秘密の合意はなかったなどとして、「密約とは言えない」とした。政府内で引き継ぎがなく、佐藤内閣後の拘束力もないとした。
 沖縄返還時の原状回復費の肩代わり密約では、有識者委は肩代わりはあったと認定。根拠とされた吉野文六アメリカ局長が米側と交わした文書は見つからなかったが、広義の密約にあたるとした。
 今回の調査では大量の文書が見つかり、公開された関連文書は5千ページを超える。半面、署名入りの「討議記録」やあるはずの会談記録などが見つからなかった。有識者委は核持ち込みについても「解明できないところが残った」と指摘、文書の「不自然な欠落が見られるのは遺憾」などとした。(倉重奈苗)

「東郷メモ」に引継ぎ記憶がある政治家と日付
三木武夫外相 1968年 1月30日
佐藤栄作首相 1968年 2月 5日
愛知揆一外相 1968年12月11日
木村俊夫外相 1974年10月 7日
田中角栄首相 1974年10月 9日、14日
二階堂進官房長官 1974年10月19日
宮沢喜一外相 1974年12月 ※日付なし
鳩山威一郎外相 1976年 1月6日 記憶のまま、実際の外相就任は同年12月24日
園田直外相  1978年 1月10日
大来佐武朗外相 1980年 1月24日
伊藤正義外相 1980年 9月 9日
鈴木善幸首相、伊藤正義外相、宮沢喜一官房長官同席 1981年 2月 3日
桜内義雄外相 1981年12月10日
安倍晋太郎外相 1982年12月 ※日付なし
中曽根康弘首相 1983年 1月14日
倉成正外相  1986年 8月 4日
竹下登首相、宇野宗佑外相 1987年11月24日
三塚博外相 1989年 6月15日

別添メモに引継ぎ記憶がある政治家と日付
中山太郎外相 1989年 8月23日
海部俊樹首相 1989年 8月24日


---核密約、10政権でリレー=「佐藤-海部」記録が裏付け---
2010/03/09-16:08
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010030900637

 核兵器を搭載した米艦船の寄港を事実上黙認する政府方針が、佐藤内閣から海部内閣までの10政権で確実に引き継がれていたことが、9日に開示された日米の「核持ち込み密約」の関連文書で裏付けられた。
 佐藤政権下の1968年1月に東郷文彦外務省北米局長が作成した「極秘」扱いの文書は、核搭載艦船の寄港が「核兵器の持ち込みに当たらない」とする米政府の見解や、日米間で突っ込んだ議論を行わずに事実上認めてきた経緯を明記。その上で「日本周辺の外的情勢、国内の核問題の認識に大きな変動あるごとき条件が生じるまで、現在の立場を続ける」としている。
 この文書の欄外には、佐藤内閣から宇野内閣までの首相や外相に外務省幹部から文書の内容が説明されたことが日付とともに記録されている。また、89年8月に栗山尚一外務事務次官が海部俊樹首相と中山太郎外相に説明したことを記したメモも添付されている。この引き継ぎについては、竹下内閣などで外務事務次官を務めた村田良平氏が昨年6月、実名で証言していた。

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